ジョーカー 町山。 町山智浩『ジョーカー』を語る

映画『ジョーカー』の疑問を考察!ラストシーンの意味は?(ネタバレ解説)

ジョーカー 町山

まず背景として、大成功を収めているマーベル・シネマティック・ユニバースに対抗したDCの似たような試みが、どうもうまくいってない状況があった。 そこでいったん、まずは独立した映画として完成度の高いものを作ってみようとの機運が関係者の間で高まり、本作の企画にゴーサインが出たのである。 題材として選ばれたのはバットマンシリーズの悪役ジョーカーだが、「とにかくいい映画作品を」ということで、この映画にコミックの原作はない。 何度もだめだしされながら1年かけて書いた脚本があるだけだ。 中身は一応ジョーカーの誕生秘話ではあるが、漫画版にある「もともと売れないコメディアン」との設定も捨てた。 だからこの映画のジョーカー役は過去に演じたジャレッド・レトーではなくホアキン・フェニックスだし、今後、他のバットマン映画などとも連結する計画はない。 すべては、単独作品としてどうしても描きたいテーマがあったためだ。 そのために、入れ物としてジョーカーのキャラクターを借りた。 それ以上に大事なのはテーマであり、また現時点で日本の批評家でこれを明確に解説している人はいないので、本稿ではその点を中心に書いておこうと思う。 不況風が吹き荒れるゴッサムシティ。 老いて病気がちの母親と暮らしているアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロの扮装でサンドイッチマンをするなどして糊口をしのいでいた。 だが彼には、緊張すると笑いが止まらなくなる持病があり、それが原因のトラブルが絶えなかった。 いつかコメディアンになりたいとの夢を持ち、ギリギリの暮らしで踏みとどまる中、福祉など彼ら親子を支えていたものは次々と失われてゆくのだった。 結論から言えば、本作は現代社会の暗喩であり、このままいけばこうなるぞという警告である。 具体的には「ジョーカーは一人ではない、現代はお前たちも含め、誰もがジョーカーになりゆく時代だ」と言っている。 だから後半、群衆が同じピエロのお面をかぶる展開になるのである。 大事な点は、ジョーカーが彼らを率いたのではなく、大衆の積もり積もった不満が爆発する、そのほんのきっかけとなったにすぎないということ。 しかもそれはのちにジョーカーとなるアーサー自身が意図したものですらない。 まさに彼は、ピエロの役回りに過ぎないことに留意すべきだ。 当サイトで何度も言及しているように、いまのアメリカ映画界は「分断」を大テーマとして追いかけている。 本作における、上流階級とそれ以外の断絶構造も、非常にわかりやすくそれを表している。 だが『ジョーカー』が素晴らしいのは、その「分断」の発生原因を明確に提示している点である。 それは、いうまでもなく主人公アーサー一家の境遇である。 彼らは社会から見捨てられているどころか、存在すらしていないほどの扱いをされている。 なんと、アーサーは3人もの市民を偶発的に殺害しても見向きもされない、発見もされない。 つかまりもしない。 彼はそれまで必死に"笑い"を我慢し、ストレスをため続け、人生を"悲劇"と解釈して自分を抑え続けてきた。 一方で上流階級はアーサーが憧れるテレビ画面の向こう側で、自信満々に振る舞い、堂々たるトークで人々を従えるかのように笑わし、豪華な劇場で観劇を堪能する。 そこにはストレスなど一切感じられない。 これは、現代社会の「分断」秩序が、下の階層のものだけが一方的に我慢を強いられ、それによって成り立っていることをまさに言い当てている。 この世の中は、弱きものだけが我慢し、「悲劇」に甘んじていると、そういっている。 そしてこの映画は、その我慢が限界に達したときに何が起きるかを、まさに「警告」しているのである。 しいたげられた者たちが悲劇を喜劇に変えようと決意し、我慢をやめたときに、社会があっけなく崩壊してゆく様を、まさに映像として見せようというわけだ。 その中でも、ジョーカーを追う刑事の存在は、まさに「分断」の象徴であるから注目してほしい。 彼はジョーカーを「秩序を乱すもの」として電車内で追いかけているが、車内の人々が自分が命がけで守るべき市民だという意識が完全に欠如している。 この病的状況こそが、現代社会のいびつさを維持させている元凶であり象徴だと、そのように感じさせられる。 もしもこの映画を見て、アーサー=ジョーカーを悪だと感じた人がいたとしたら(ある程度そう思わせるように仕組まれているが)、その人はかなり重症である。 洗脳されているといってもよい。 これを機に、本気で自分を見つめなおしたほうがよい。 この映画の中のジョーカーは、何度も何度も何度も、人さまに迷惑をかけずにいきる道を歩む可能性と意志があった。 だが社会はそれをことごとく無視した。 その最たるものが、バットマンことブルース・ウェインの父親であろう。 彼こそが、その病んだ社会の象徴であり、カタストロフィを引き起こした要因である。 彼がその気になれば、社会の崩壊を食い止めることができた点に注目しよう。 そして挑発的なことに、ジョーカーがボンネットに横たえられてからの一連のシーンは、キリストの物語を暗喩している。 それは車上で彼がとるポーズを見れば一目瞭然である。 では、悪魔は一体だれなのか? このような含みを持ったドラマを、アメリカの観衆は絶賛しているというのだから、あの国もじつに病んでいる。 今の世に激しい不満があり、正確にはわからないがその原因が自分ではなく社会にあるのではないかと、そう考えている人たちが増えているという事だ。 本作が警告する「堪忍袋の緒が切れる」瞬間は、そう遠くないかもしれない。 引き返すなら今しかない。 いうまでもなくそれは、わが国でも、あるいは他の先進国の多くでも全く同じであろう。

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『ジョーカー』はなぜ無視できない作品なのか?賛否の議論を考察

ジョーカー 町山

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。 ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。 今週評論した映画は、 (2019年10月4日公開)。 今夜扱うのはこの作品。 ! アメリカンコミックを代表するヴィラン(悪役)、ジョーカーの誕生秘話をオリジナルストーリーで描く。 後にジョーカーとなる主人公のアーサーをホアキン・フェニックスが熱演。 監督は『ハングオーバー!』シリーズなどのトッド・フィリップス。 第79回ヴェネチア国際映画祭でDCコミックスの映画化作品として史上初めて 最高賞の金獅子賞を受賞……というか、アメコミ原作として初めてじゃないの? ですよね。 だと思います。 ということで、この『ジョーカー』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。 ありがとうございます。 メールの量は、 「とても多い」。 ダントツで今年最多ということでございます。 なんていうんですかね? もちろんアメコミ映画として見に行く人もあり。 そしてやっぱり単体の映画としての評価も高いですから、普通に映画ファンも行く……など諸々な感じで、全方位的に見に行くタイプの映画っていうことはあるかもしれませんよね。 賛否の比率は 「褒め」が9割。 絶賛評多しということございます。 褒めている人の主な意見としては 「すごい映画を見た。 いまもずっと余韻を引きずってる」「どこまでが本当でどこまでが嘘かわからない。 あるいは全部がジョークなのか。 曖昧な描き方がとても上手い。 ジョーカーのような存在を望む我々の願望もきちんと捉えてる。 とても現代的な映画」「ホアキン・フェニックスがすごすぎる」 などの意見がございました。 否定的な意見としては「理解不能なところがジョーカーの良さだったのに、この映画ではジョーカーに感情移入できてしまう。 こんなのジョーカーじゃない」などがありました。 ラジオネーム「深夜高速」さん。 「『スーサイド・スクワッド』や『ヴェノム』といったフィクションがもう一歩な出来であったのとは対照的に、リアルでは 世界一の権力者がトランプ氏という完成度の高いディストピアであり、現実が創作を追い越してしまっている2. 5次元ワールドにおいて、どんな物語が提供できるのか楽しみにしていましたが、今作は予想以上でした。 主役であるジョーカーはトランプ政権を誕生させたラストベルトの白人を表しているようで、資本主義に異議を唱えるウォール街の選挙運動の象徴にも見え、また非モテをこじらせたインセル(involuntary celibate・不本意の禁欲主義者)の側面もあり、それらの怒りが銃によって発散されるというのも、もはや日常化してしまったアメリカにおける銃乱射事件を思い起こさせるものです。 さらに現在進行中の香港での抗議活動に行政側が『マスク禁止』という手段を取ったことなどは、映画制作者の意図を超えて劇中においてピエロのお面をしてる大衆たちとも重なりました。 ジョーカーという悪がバットマンという善と同根であると示唆をしておきながら、それは妄想の産物にすぎないと否定し、見るものによっていくつにも解釈できてしまう多層的な意味を盛り込んでおきながら、決して破綻はしておらず、一貫性のある熱演と物語はまさしくこのディストピアな 今現在だからこそ作られるべき作品だと思わされました」というね。 ありがとうございました。 一方、イマイチだったという方。 「オカヤドカリ」さん。 「『ジョーカー』、ウォッチしてまいりました。 感想としては『求めていたものと違う』という感じです。 私はバットマンシリーズは素人で、作品もノーラン三部作しか見ておりません。 その素人としては、やはり『ダークナイト』のジョーカーが見たいという期待を込めて映画館に行ったのです。 ですので、この『ジョーカー』という映画は物足りなく感じてしまいました。 これ作り手の意図したところでもあるでしょうが、ジョーカーが悪人に見えないという箇所が私にはやはり引っかかりました。 1人の男がジョーカーというダークヒーローに変貌するまでを描きますが、ジョーカーになる前となった後でそれほど大きく変化したように見えないのです。 私たちとしては『ジョーカーに堕ちた』という姿を見たかったのですが、ジョーカーとなってからもそれほど悪いことをしていないように見えるし……」。 まあ、殺人とかをしているかもしれないけど、それにはちゃんと理由があるように見えるという。 で、「……カタルシスを感じさせてくれるような場面や展開がもっとほしかったです。 正直、 『ジョーカー、もっと悪いこと、美しいをことやってくれよ! 全然物足りないよ!』と思ってしまいました。 やはりジョーカーという超越的な存在を人間的に描くことの食い合わせの悪さが目立ってしまう作品だったと思います」。 まあ、これは要するにヒース・レジャーのジョーカー像が強烈過ぎて……というところはあるかもしれません。 ということろで『ジョーカー』、私もバルト9とTOHOシネマズ日比谷で見てまいりました。 特にバルト9の方は、連休最終日だったっていうこともありますけど、深夜回だったにもかかわらず、とにかくお客が後から後から……要するに、あまり普段映画館に行きつけてないのかなっていう感じの(観客層で)、始まってからずっと15分ぐらいは入場が絶えないという。 後から後から、 とにかくすごく入ってましたね。 アメコミの、しかもそれもヴィラン(悪役)の単独映画が一般層まで巻き込んで大ヒット、という、これは10年以上前だったらちょっと考えづらかった状況だと思うんですけども。 それを成り立たせている背景のひとつとして、これはやっぱりね、まず 「ジョーカー」というブランド。 で、その「ジョーカー」というブランドが何であるかといえば、それは間違いなく、ご存知2008年『ダークナイト』での、 故ヒース・レジャーの、本当に歴史的な名演によって強烈に印象付けられたジョーカー像、というのが、まず前提としてあると思うんですね。 やっぱり「『ダークナイト』のジョーカーがすごかったから、じゃあジョーカー単体でも見に行きたい」という気持ちがみなさん、普通の一般層にも浸透している、というのはあると思います。 で、それだけに、まあ誰もが認める圧倒的なヒース・レジャー版ジョーカーというのがあるわけですから、あまりにも高いハードルがあるわけですね。 それを前に、改めてこのスーパーヴィランの誕生譚、バックストーリー……先ほどのメールにもあった通り、たしかにヒース・レジャー版のジョーカーは、なんていうかその向こうが全く見えないっていう感じ。 理由なき存在である感じというかね、そこが本当に面白かったし、怖かったし、っていうところなので。 そのバックストーリーを語り直すっていうのは、 なかなかちょっとリスキーな試みでもあるように、僕個人も見る前は思ってました。 で、やっぱりヒース・レジャーの後のジョーカー役は難しい、というのは、『スーサイド・スクワッド』のね、 ジャレッド・レト版が、もう無かったことにされつつある、というあたりからもわかるという感じだと思いますが……ですが、今回の『ジョーカー』。 コミックの原典としてはですね、アラン・ムーア、そして絵はブライアン・ボランドさんという方が描いています、1988年の名作 『バットマン:キリングジョーク』。 これを明らかにベースにしている。 ただそれをベースにしつつも、あくまでも単独の映画作品として……つまりMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の成功以降の、いわゆるユニバース的な、他の作品とリンクしてますよ、とか、あとはドラマシリーズ的なリンク、「これは次につながっていく、全体像の中のひとつでもありますよ」みたいなリンクとか。 あるいは、まあやっぱりファンムービー化、的な方向ですよね。 『エンドゲーム』は本当にその色が強い作品でしたけども。 まあ、ファンが喜ぶ、ファンへの目配せ。 あるいはその、「原作のこの部分とこの部分とこの部分をうまくアレンジしてこうやって……ファンもオタクも納得!」みたいな。 そういうファンムービー化的な方向性とは異なる……むしろそういう意味で言えばですね、はっきりそこには、背を向けてる。 一種、反時代的なと言いましょうか。 言ってみれば、かつてあったような 「映画らしい映画」として、今回の『ジョーカー』は作り上げられている。 で、いろんな意見が出ているようですけど……先にちょっと僕個人の結論から言うならば、僕は、 全・面・支・持! ですね。 今回ね、ひとつにはちょっと、個人的な趣味嗜好の件も絡んでくるので、そのあたりもちゃんと切り分けながら話しますけども。 「こんなの、抵抗できるわけがない!」という風になりました。 というのもですね、これは完全に僕個人の好みの問題の話でもあるんですけども、僕は以前からですね、70年代半ばぐらい……70年代いっぱいぐらいから80年代初頭にかけての、 超治安が悪かった頃のニューヨークが映っている映画が大好物!っていう風に公言しているわけです。 これ、この時代感っていうのは、要はアメリカンニューシネマ後期から末期にかけて、であると同時に、完全にヒップホップ黎明期のニューヨーク、なんですね。 これ、後付けでもありますけど。 やっぱりその時代のニューヨークの風景とか文化みたいなのがすごい好きだ、っていうのがあるんですけど。 で、その「70年代から80年代初頭の、超治安が悪かった頃のニューヨークが映っている映画が大好物」っていう風に公言している私にとってはですね、今回の『ジョーカー』は、まさしくその時代そのものを描こうとしている……映画館でかかってる作品、ブライアン・デ・パルマの『ミッドナイトクロス』とか、あとはジョージ・ハミルトン主演の『ゾロ』とかがかかっていたんで、具体的には1981年です。 1981年のニューヨーク、という設定……まあ、(設定上はバットマン・シリーズの舞台である)ゴッサムなんだけども、明らかにニューヨークですよ。 とにかく僕が言っているような、まさしくその時代、1981年のニューヨークを思わせるゴッサムシティ、および 「その時代の映画たち」を再現しようとしてる作品である、ということがもう、開幕早々にわかるわけですね。 要は、 「オレと同じような映画が好きなやつが作った映画だ!」というのが、開幕数分でわかっちゃう。 もう、ビンビンに来る!っていう感じですよね。 最初の、もういきなりワーナーのマークからしてね、70年代のワーナーのマークが出ますし。 特にやはりね、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』(1976年)、さらには同じスコセッシで『キング・オブ・コメディ』(1982年)。 『キング・オブ・コメディ』は非常に色が濃いと思います。 ラストに向かうにつれて、だんだんその虚実と言いましょうか、なにが現実でなにが妄想か、だんだんその境目がわかんなくなってくる感じも、すごく『キング・オブ・コメディ』っぽいです。 ロバート・デ・ニーロのキャスティングからしても、これは露骨なほどスコセッシオマージュ、というのはありますし。 あと、たとえば地下鉄内で、後にジョーカーとなる今回の主人公、アーサー・フレックさんが、最初の一線を越えてしまうあたり。 これはもう完全に『狼よさらば』ですね。 原題『Death Wish』、1974年、ですし。 続く地下鉄のホームのところ。 階段で、逃げる男を背中から撃つ。 これはもう、フリードキンの『フレンチ・コネクション』(1971年)、これを連想してしまいますし。 あるいは、アーサーの家路の途中にある、あの印象的な長い階段。 ずっと彼がそこを登ってくるショットっていうのが毎回あるんだけど、最後はジョーカーになりきったところで、今度はその階段を降りてくる、という印象的な階段、ありますね。 長い階段。 あれ、ブロンクスでロケをしてるらしいですけれども。 あの階段は、やっぱり同じくフリードキンの『エクソシスト』を想起させるな、とかですね。 他にも『カッコーの巣の上で』オマージュ、あるいは『ネットワーク』オマージュであるとかですね。 個人的には、『ジャグラー ニューヨーク25時』的だなと思うところもあったり……まあ、『ジャグラー』までトッド・フィリップスが見ているかどうかはわかりませんが。 という感じで、とにかく70年代〜80年代初頭の、言ってみれば社会不適合者、社会からどうしてもはみ出してしまうものを抱えた人々の、逆ギレ的爆発を描いた映画たち。 その存在、あり方や精神というのを、今回の『ジョーカー』は、 アメコミ映画という、目下最も広く大衆の耳目を集めえるフォーマットを使って……これはちょうど、 劇中のアーサーが世間の注目をようやく集めて、ようやく世間に自分の存在を認めさせた、というのと、ちょっと構造的に重なると思うんですけども。 アメコミというフォーマットを使って耳目を集めながら、あえていま、その70年代〜80年代初頭の、社会不適合者の逆ギレ爆発を描いた映画のイズムを再現してみせた一作、と言えると思いますね。 もちろんご存知『ハングオーバー!』シリーズをはじめ、コメディで成功されてきた方ですけども。 ただ、この方はそもそも……以前に僕、『ハングオーバー!』評の中でも言いましたけど、そもそも監督デビューとなるドキュメンタリー『全身ハードコア GGアリン』。 ハードコアパンクのアーティスト、GGアリンさん。 亡くなってしまいましたけども。 その1993年の『全身ハードコア GGアリン』からある種一貫して、まさに 「社会からどうしてもはみ出してしまうものを抱えた人々の、逆ギレ的爆発」をずっと描いてきた。 全部一貫している。 なので、今回はトーンとしてはシリアスなドラマものですけども、要はいわゆる「笑うしかないほどひどい現実」にあふれたこの世界の中で、痛み、悲しみ、そして怒りに対してこそ笑ってしまう、という体質の……つまり、最 も正気だからこそ狂気に陥ってしまう、 もしくは狂気に陥ったように見えてしまう、とも言える人物が主人公の今回の『ジョーカー』は、トッド・フィリップスさんがこれまでに作ってきたコメディ作品の視点を、客観から主観に移し替えただけだ、という風にも言える。 要するに、 「寄りで見ると悲劇、離れて見ると喜劇」ってよく言いますよね? そういうことだとも言える。 ゆえに今回、非常にシリアスなトーンの作品なんだけども、要所要所でですね、たとえば後半にある惨劇が起こるんですけども、その惨劇の現場から逃げ出そうとした、この主人公のピエロ業の同僚の、小人症の男性がいるわけです。 その小人症の男性が陥る、ある困った事態、とかですね。 要所要所でこの、凍りつくような笑いっていうんですかね? もう笑うに笑えない、でもなんか面白い、という場面が出てくるという。 あるいは前半ね、難病の子供たちの前でピエロ営業中に、「ゴトーン!」ってね、銃が落っこちて(笑)。 「あ……ええと……こ、これはね、違うんですよね……」なんて。 そういう風に、言わば「笑うに笑えない喜劇」であると同時に、「笑ってしまうほど悲惨な悲劇」でもあるような……ゆえに、たとえば主人公は 大声で笑っているのに、同時に苦しんでいるように。 あるいは 泣いているようにも、怒っているようにも見える、というような感じで。 常にその、複雑な感情が入り混じったグレイゾーンを、ずっと揺れ動くような感じの、非常に綱渡り的な緊張感がずっと続くと言いましょうか、そんな感じの役柄、アーサー・フレック。 後にジョーカーとなるこの主人公の役柄。 というのは、これは町山智浩さんも指摘されていましたけども、そもそもあの、『容疑者、ホアキン・フェニックス』という、ホアキン・フェニックスがいきなり「俳優業を辞めてラッパーになる!」と言い出すという作品。 で、「ドッキリだよーん!」みたいなことを言うんですけど、 「いやお前、ドッキリじゃねえだろ! 2年間棒に振っているんだから、全然ドッキリじゃねえだろ!」っていう(笑)。 あの、身体を張って笑いを取りにいった結果笑えない、っていうのはまさに、アーサー・フレック=ジョーカーそのもの。 ホアキン・フェニックスの実像に重なるところもある。 「ちょっとこいつ、ガチでヤベえんじゃねえか?」っていう感じがするという。 なのでそのホアキン・フェニックスの当て書き、というのも納得。 で、実際にそれを受けてのホアキン・フェニックス、今回の映画を見ると、あの、異様に肩から骨が突き出すまでに痩せ細って、基本的にずっと身体を強張らせている……なんだけど、時にコンテンポラリーダンサーのように、奇妙にしなやかにステップを踏んでみせたり、身体をしならせたりする。 まさに、さっきの『全身ハードコア』ならぬ、「全身アーサー・フレック」状態のホアキン・フェニックス。 たとえば、最初の殺人シーンの後、トイレの中に逃げ込んだところで、彼が踊り始める、というくだりがありますけども。 あそこ、音楽のヒドゥル・グドナドッティルさん。 この方は、『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』の音楽とかをやっている。 要は亡くなったヨハン・ヨハンソンの弟子のチェロ演奏者の方なんですけども、この方のチェロ演奏を流しながら、即興でホアキン・フェニックスが踊りだしたところを、「それ、いい!」っていうことで慌ててカメラを回した、という風に……これ、パンフの解説にも書いてありましたことですけども。 まあそんな感じで、ホアキン・フェニックスの完全なド迫力なりきり演技。 これに引き込まれていくうちに……またこれは映像がものすごく美しくてね。 ALEXA 65というカメラで撮った映像が本当に、被写界深度が深くて、非常に美しいんですが。 それに引き込まれていくうちに、たとえばさっき言いました、オマージュを捧げられているスコセッシの『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルであるとか、あるいは『キング・オブ・コメディ』の主人公のルパート・パプキンとかと同様、同情・共感と、嫌悪と軽蔑の間を、観客も揺れ動くことになるわけですね。 「ああ、かわいそうだな。 こいつ」「なんてことしてんの、お前。 ええっ?」っていうこともしたりする。 その間を揺れ動くことになる。 非常にだからグレイゾーンを、演技も揺れ動くし、こっちの感情もずーっと揺さぶられ続ける。 もちろんですね、描かれていること……メールにも多かったですけどね。 広がる格差に不満、怒りを溜め込む社会。 それが民衆の怒りとなって爆発する。 非常に現代的なテーマを扱っている作品でもあるわけだけど。 ただ僕ね、本作が非常に巧み、ちゃんと面白く、よくできているなって思うのは、主人公を単にその社会的弱者、同情すべき存在、単に「かわいそうな人」とだけ置かずにですね、つまり単純な善悪二元論に落とし込まないように、 語り口にある仕掛けを盛り込んでいる、というところですね。 映画を見終わると特にわりとはっきりするんですけど、実は全編にわたって、どこからどこまでが現実で妄想なのか、その境目が、意図的に曖昧にされたつくりになっている、ということが、さかのぼって強く感じられるようなつくりになっていて。 終わってみると 「あれ? ということは……?」みたいな。 たとえばですね、終わってみると、ラストシーンですけど、冒頭と中盤にあるカウンセラーとの対話、これが最後に出てくるカウンセラーとの対話と、明らかに対になるように見せているわけですね。 「えっ? ということは……?」っていう読みもできるようになっているし。 ここ、ちょっと『シャイニング』風。 妙に白く明るい照明。 この照明も怪しいし、そのシーンの最後で彼、主人公がとっているポーズと、次の自室で上半身裸で立っているポーズが完全に同じで、(場面だけ)パッと変わるわけですね。 「あれ? ということは……?」っていうあたりとかですね。 あるいは、お母さんの言い分。 最初、お母さんが言っていること、「そんなことがあったのか! ひどい!」って(観客も思う)。 でも、「いやいや、それは彼女の妄想だから」って……なるのか? つまり、お母さんの言い分が正しいのか、あるいはブルース・ウェイン親父の言い分が正しいのか、どっちが本当なのか。 ちょっと揺さぶってきますよね。 「(裏にサインが入った)写真もあるしな……」とか、揺さぶってくる。 こんな感じで、とにかくほぼ全編が、振り返ってみれば、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか、どっちが本当のことを言っていてどっちが違うのか、どちらとも取れる、絶妙なバランスで作られている。 最後の最後まで揺さぶりをかけてくる、という感じなんですね。 「こうだと思っていたのに、あれ? 違うのかな?」っていうディテールも入れてくる。 これによって、さっきから言っているように、単なる善悪とか単なる強者/弱者の二元論に陥ることも逃れているし、何より言うまでもなく 、これこそがつまり、「ジョーカー的」なわけですよ。 特にやはり、先ほどから言っているアラン・ムーア『キリングジョーク』で描かれたジョーカー・イズムに、実はこれ、非常に忠実なジョーカーの描き方なんです。 なので「ヒース・レジャー版と違う!」って文句を言うのはいいんだけど、ちょっと『キリングジョーク』を読んでみてください。 実はそこは非常に忠実に継承をしている作品だ、という風にも思います。 もちろん、先ほど地下鉄のシーンが『狼よさらば』だっていう風に言いましたが、そもそもジョーカーがそうやって地下鉄内で一線を超えるシーン、要はビジランテ(自警団)的な行動を取っているわけですね。 その「自警団的な行動を取った人が街のヒーローとして大衆に支持される」…… これ、後のバットマンとやっていることと、なにが違うんですか? 完全に鏡像関係というか、変わらないじゃないかっていう感じにも言える。 で、もちろん後のバットマンの誕生をそのジョーカーが予感して…… 「いやあ、最高に笑えるジョークだ」なんてことを言うわけですけども。 ただ、彼はですね、そのブルース・ウェイン少年が遭ったあの事件の、現場にはいないはずですし……とかね。 あと、先ほどの、そのブルース・ウェイン親父との会話自体がそもそも怪しいぞっていう描写も含めると、ここもやはり現実/妄想、曖昧なあたりになってくる、ということですね。 ということで、バットマンとジョーカーというものの鏡像関係っていうあたりは、まさしく『キリングジョーク』的な視点で、アメコミヒーロー物自体を批評する視点っていうものがある。 それも面白いですし。 しかも、僕はこの映画が見事だと思ったのは、いま僕が言ってきたようなその諸々……他にもいろんな読みができると思います。 いろんな社会批評的な読みもできると思います。 あるいは構造分析をしたりとか、あるいは共感、感情移入する、っていうこともあると思います。 その「ジョーカーが同情すべき人物として描かれている。 だから嫌だ」っていう風にメールでもおっしゃっていましたけども……みなさん最後のセリフ、覚えていますか? それら全てを、全部ばっさりと切って捨てるわけですよ。 「はあ? お前らとは関係ない。 (バサッ!)」って。 決まったー!っていう感じですよね。 あの最後の一言によって、完全にジョーカーとして完成した。 そしてその後に続くエンディングショット。 しっかり「コメディ」として幕を引く。 スマートだな!っていう感じがいたしますね。 ということで、もちろん好き嫌いの問題はあるにしても、やろうとしたことの中では、 最上の結果を出している一作だ、という風にも思います。 私、個人的にはですね、以前この番組でも紹介しました、このMCU、アメコミ映画全盛期、映画のあり方そのものが変質しつつある今、マーティン・スコセッシが「MCU、あれは映画じゃない」なんて発言をして、非常に物議を醸したりしたこの今、まさにそのスコセッシ的な映画のあり方っていうのを…… 「本来、映画って……じゃあ映画って何? 映画のやれることって何?」っていう、まさにスコセッシ的な映画のあり方というのを使って、今に問い直して見せる。 だから、やっぱり今でしか作られない、映画のあり方を問う、みたいな映画にもなっているというところで。 あらゆる角度で僕は見事だなと思いました。 ということでお見事、賞を獲ったりするのもこれは当然だなと思いますし。 さらに賞レースに残ってくる作品なのは間違いないでしょう。 もちろん好き嫌いがあるのはわかりますけどね。 あと個人的には、いろんなゲストを迎える番組の司会者として、やはり、 ゲストにナメた態度をとる、もしくはナメた態度でゲストを呼ぶ、これは本当に絶対に慎まなければいけないな、と思った次第でございます。 あと 逆恨みは本当にやめてください!(笑) 以上、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください! (ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画はです) 以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。 —- (以下、ガチャパートにて) 宇多丸:あの地下鉄の中でね、証券マンが乗ってきて、その3人が狼藉を働いて、っていうところね。 ちょっとあのウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』っていう映画があって。 それで地下鉄の中にやっぱり裕福な若者たちが乗ってきて……っていう、そこも思い出したりしたかな。 山本匠晃:証券マンなのか、広告マンなのか……。 宇多丸:いや、広告マンじゃないです。 それ、勝手にいろんなものを投影する人が…… 自分の恨みを投影するんじゃない!っていうね(笑)。 そのへんも戒めている映画だろうが!っていうね。 まあ、『タクシードライバー』を見て、主人公トラヴィスの最後の行動に拍手喝采を観客がしていて、それに当時スコセッシがショックを受けた、というんですよ。 そんなエピソードもありますけどね。 だからそういう状況もちょっと重なる、そういう面もある、ということですかね。 5MHz/AM954kHz、PCやスマートフォンはで。 聴き逃しはで一週間前まで、それより過去はで。 スマホの方はを使うとより快適にお聞き頂けます。

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映画の「ジョーカー」についての質問です。

ジョーカー 町山

おはようございます、チェ・ブンブンです。 昨日、ブンブンは『ジョーカー』と『宮本から君へ』を観てきました。 どちらも下手すれば心に潜む邪悪な感情を呼び覚まし、自分を蝕みそうな劇薬で、今日紹介する『ジョーカー』は試写の段階から 「これは子どもに魅せてはいけない」「これは模倣犯が現れる。 ヤバい! 」と不穏な風の便りが漂っていました。 最近、仕事で精神すり減らしているブンブンが果たして観ていいものなのか? ただでさえ『ザ・マスター』のホアキン・フェニックスのような狂気と暴力性を宿しているのに…と思いつつ観に行きました。 …大丈夫です。 精神は正常です。 ただ、金獅子賞を獲ったのは納得のクオリティで、予想に反して面白かったものの、色々と問題を抱えている作品でありました。 また、Twitterが『アベンジャーズ』や『スター・ウォーズ』シリーズ以上に盛り上がるのも納得、ポエムな文章で感想を書きたくなるのも納得のちょっとやそっとじゃ、消化できない深みを抱えた作品でありました。 というわけで、ブンブンも ネタバレありで本作を6つの観点から考察していこうと思う。 割といつも以上にとっ散らかった文章になっているとは思いますが、参考にどうぞ… 『ジョーカー』あらすじ 「バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。 道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。 原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。 「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。 しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。 これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。 「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。 第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、DCコミックスの映画化作品としては史上初めて、最高賞の金獅子賞を受賞した。 comより引用 ポイント1. 神話が民話に歩み寄る挑戦 DCとMarvelの違いは神話と民話だという理論は、町山智浩を始めよく提唱される理論だ。 スーパーマン、バットマンといったDCのキャラクターは人間離れし、弱みも我々一般庶民からすると中々現実感の湧かないものだったりする。 そしてそれに対峙するヴィランもジョーカーやトゥー・フェイスといった超絶個性的なものだったりする。 フィクションとしてのキャラクター造形をしている。 一方、Marvelのキャラクターは人間味が溢れている。 あのアイアンマンことトニー・スタークですら、莫大な富を得たものの、アベンジャーズという船頭しかいない混沌の中でどのように折り合いをつけて国際平和、宇宙平和を実現するのか悩むあたりに中間管理職、ないし社長の苦悩が滲み出ている。 こういったことから、DCは神話、Marvelは民話という住み分けがされているという理論が導き出されている。 しかし、今回の『ジョーカー』は驚くべきことに、DC映画にも関わらず 《民話》に歩み寄ってきたのだ。 そして、ジョーカーのファンは起こるであろう、彼最大の魅力である《得体の知れなさ》という敢えて残してある黒いキャンバスに、鮮血と新緑のペンキを塗りたくっていたのです。 ジョーカーはニーチェでいう善悪の枠組みとは別次元に行ってしまった超人である。 彼は利益を求めず、人が善悪の彼岸で苦しみ、過ちを犯す様子を楽しむだけ。 どんだけ痛めつけようと、「何? ジョークにマジになっているの? 」と煽り、彼を葬り去ること自体が敗北宣言であることを意味する厄介なヴィランである。 ヒース・レジャーのあの邪悪なジョーカーで深掘りされたそのキャラクター像、最大の魅力は、こういった《得体の知れなさ》、概念が具現化したような存在。 掴めそうで掴めないキャラクターだった。 そこに、 「実は彼は病気持ちでねぇ」というペンキを塗るとんでもないタブーを冒している。 そして終いには、この映画は トッド・フィリップスという『ハングオーバー! 』シリーズでお馴染みコメディ専門監督が、コメディアンを描いておきながら、一切の笑いを映画の中から消してしまう魔法でもって紡いでいるのだ。 一つ一つが大きな賭けで、即酷評炎上祭に発展しかねない爆弾を抱えている。 実際に予告編を観た段階では、非常に不安が残るものだったのですが、これが非常によくできていた。 確かに金獅子賞も納得だ。 ポイント2:《悲劇は遠くから見れば喜劇》だに対する反論 トッド・フィリップスがコメディを知り尽くした男だからこそ、この映画におけるコメディの描写が洞察力の塊となっており、一つ一つのディティールに見応えがある。 まず、冒頭。 店先で、看板パフォーマンスをするアーサー 後のジョーカー がその看板をチンピラに奪われた挙句、暴力に負ける瞬間が描かれタイトルが提示される。 その次の場面では、アーサーがヒィヒィと泣いているのか笑っているのか分からない表情がアップで長々と映し出される。 アーサーのコスプレは《ピエロ》であることを思い出していただきたい。 《クラウン》の中でも《ピエロ》だ。 ピエロには涙の印が付いている。 それはピエロは常に戯け続け、人々にバカにされ、心に傷を負うもののそれを悟られないように涙の印をつけている。 つまり悲しみの印なのです。 そして物語が進むと、彼は突然笑いが止まらなくなる病気を抱えていることが明らかにされる。 こういった多層的な顔によって、彼は笑っているのか泣いているのか分からない、得体の知れなさが浮かび上がってくる。 そうです。 単にジョーカーの持つ《得体の知れなさ》を表す黒いキャンバスにペンキをぶちまけているのではなく、緻密に余白を残しているのです。 こういった配慮により、ジョーカーファンも最低限満足するところまで物語を底上げし、余計なノイズが入らないよう調整しているのです。 そしてこの多層的な顔を使って、トッド・フィリップスは面白い思考実験を行う。 では悲劇の渦中にいる人が自ら喜劇に変えられるのか? その瞬間を観客が近い位置で観測できるのか? という問題提起の元、アーサーがジョーカーになるまでのプロセスが描かれる。 アーサーは病気持ちだが、コメディアンを目指しながら病気の母親を介護している。 しかし、市の政策で定期的に行なっているセラピーも打ち切られ、彼は孤独の淵に立たされる。 実は父親は大富豪。 ひょっとしたら自分は救われていたのかもしれないという甘い蜜の横で、薬とタバコ、不安に心がグチャグチャになっていき、冷蔵庫に入り自殺しようにも、心が弱いので死ぬこともできない。 徹底的に悲劇を魅せていく。 それも一つ一つの要素が、すぐ側にあるようなリアルで生々しい実情なので、観客は嫌が応にも主観で事象に対峙する。 つまり悲劇の渦中に放り込まれる。 悲劇の渦中に放り込まれた我々観客は奇妙な経験をする。 一つはアーサーがスタンドアップコメディ劇場に行く場面。 彼は他の観客が笑わない場所でゲラゲラと笑うのだ。 病気であることを知っている私は、この空気の読めない空間に居心地の悪さを覚えるのだが、別の場面でハッとする。 それは、人々が劇場で『モダン・タイムス』のスケートで穴に落ちそうになるチャップリンを観てゲラゲラ笑う場面だ。 確かに、 『モダン・タイムス』は滑稽な映画ではあるが、大衆が一斉に腹を抱えて笑うその場面には一種の不気味さがある。 というのも、『モダン・タイムス』は単純労働、ブラック労働の末精神病院に入れられ、挙句にデモのリーダーと間違えられ逮捕される悲惨な話なのだ。 如何に、人々が悲劇を他人事のように客観的にしか観ていないのかを表しており、既に映画という客観的メディアでありながら主観の空間に押し込められ世界を観ている私はその異様な光景に背筋がゾッとするのです。 そして、職も親も金も友人も全てを失った彼は、全てがジョークなんでしょとどうでもよくなる。 そして《これは喜劇なのさ》と自分に念じることで、ジョーカーとなり惜しみなく銃を撃つようになる。 本作はコメディ映画職人トッド・フィリップスが 《悲劇は遠くから見れば喜劇》なんてもう言ってられないと叫んでいるように見える。 ドナルド・トランプが炎上する前に自ら炎上芸を仕掛け、狂人として振る舞うことで喜劇に魅せている。 そしてその魅惑の喜劇が、人々の憎悪を呼び覚まし、過激にさせ、差別や断絶を生み出す。 喜劇という仮面の下で悲劇が蠢いている。 そして、イギリスのEU離脱、デンマークの移民廃絶運動、韓国、香港のデモと混沌が世界を覆っているのだが、それは《喜劇》ではないと監督は笑み無き喜劇で表明したと言えよう。 ポイント3:『キング・オブ・コメディ』、『タクシードライバー』より重要な『ネットワーク』の面影 巷では、『ジョーカー』と併せて『キング・オブ・コメディ』、『タクシードライバー』を観ると良いよと盛り上がっている。 確かにロバート・デ・ニーロが出演していたり、個人の一方的な感情の暴走を描いているあたりに共通点を見い出すことができる。 しかし、個人的に シドニー・ルメットの『ネットワーク』こそが本作のキー要素だと踏んでいる。 『ネットワーク』は1976年の映画で、 アカデミー賞主演男優賞、主演女優賞、助演女優賞、脚本賞を受賞した作品。 視聴率低下によりクビとなったニュースキャスターが公開自殺をすると番組内で宣言する。 すると視聴率が一気に上がり、それを「しめた! 」と思ったプロデューサーは、彼を偶像として祭り上げ、世間のヘイトを吐露させ視聴率を上げようとするドラマだ。 実は、本作においてジョーカーは空っぽの偶像として描かれている。 彼は殺人を犯したが、彼の正体が明らかになる前に、人々は暴動を始めているのだ。 富裕層と貧困層の断絶によって貧困層の人々はヘイトを溜めているが、爆発する機会がない。 そこに、ピエロが大企業の職員を殺すという象徴が与えられたことにより、彼らに機会が提供され暴動に至るのだ。 一方、マスコミは番組を盛り上げようと、観るも病気なアーサーを祭り上げる。 テレビの司会者は、外で暴動が起きる中、ピエロのコスプレをするアーサーを、「視聴率が稼げるかもしれない」という浅はかな気持ちでそのまま出演させてしまう。 そして、彼らはしっぺ返しを受ける。 滑稽無形に振舞っていたアーサーは「世界なんか壊れてしまえばよい! 」と殺人の告白をする。 そして、憧れのテレビの司会者と対話をする内に、司会者は所詮安全な箱から下界を見下しているんだということに気づき、怒り、彼を射殺してしまう。 それと同時に世界は、マスコミの、大企業の欺瞞に怒りを爆発させ暴動がさらにヒートアップしていくのだ。 これは『ネットワーク』の裏返しとも言える展開だ 『ネットワーク』のネタバレになってしまうので、興味ある方は是非観て確かめてください。 詰まる所、本作は人が狂人になるプロセスよりも、断絶によって生じる見下しの目線、あるいは安全地帯から下界を覗き込む視点の危うさに重点を置いた作品なのではと捉えることができ、仄かに匂わせる『ネットワーク』に演出の鋭さを感じます。 ポイント4. ジョーカーのズレた笑いのカルト性とコウメ太夫の意外な関係性 涙が止まらないと思ったら~、 ウォシュレットおしり貫通してました~。 チクショー!! — コウメ太夫 dayukoume 人間が生理学的欠陥を有する生物である事を指摘し、人間を「欠陥動物」と定義したゲーレンによれば、人間はそれ故に抽象的操作や文化創造を行ったのだという。 彼こそがジョーカーだ。 という理論を体現している芸人が日本にいる。 それは コウメ太夫だ。 白塗り、甲高い声で、つまらないギャグの後に「チクショー」と叫ぶ前のめりな演出は、2000年代バラエティ番組『エンタの神様』で一瞬話題となり一発屋として消えた…と思われた。 しかし、コウメ太夫はTwitterで《まいにちチクショー》と称し、毎日捉えどころのないギャグを連発し続けていた。 その独特な世界観が人気を博し、哲学的側面から分析する者、いらすとやのイラストで事象を再現する者、英訳してみる者と様々なフォロワーが増えていき、カルト化していった。 『ジョーカー』のクライマックスで、ジョーカーは精神分析医に「 俺のギャグは常人のお前には 分からないさ」と言い捨てる。 ジョーカーの一般人と違った笑いどころを開き直り、無視していくスタイルとコウメ太夫の一貫した異次元のユーモアは近いものを感じます。 日本で『ジョーカー』をリメイクするのであれば、是非ともコウメ太夫に挑戦して欲しい。 個人的に応援している芸人なだけに、全く関係ないのですがここで応援してみました。 ポイント5:『パラサイト 半地下の家族』と併せて2019年映画界が変わった 特に2010年代のカンヌ国際映画祭最高賞というのは正直酷いと思う。 一般的に映画祭というのはアカデミー賞とは違い、少数の人数で賞を決めるというもの。 少数故に、普段あまり注目されない作家や、アート性が強い作品にスポットライトが当たりやすくなる。 寧ろそれが映画祭の役割である。 しかしながら、カンヌは安直な弱い人にスポットライトを当てたリアリズム重視な作品ばかりを最高賞に選んでいる。 確かに『アデル、ブルーは熱い色』や『』は良い作品だが、果たしてそれで良いのか? 特に、カンヌの場合は、フランスの中でも物価が高いリゾート地で行われ、映画関係者であっても階級で注目作が観れたり観れなかったりする場所。 そこで弱い人の映画を手放しに褒めるのは、ある意味欺瞞だと言えよう。 高みから見下しているようで嫌な感じがする。 しかし、今回パルムドールを獲った『パラサイト 半地下の家族』も金獅子賞を獲った『ジョーカー』も一見2010年代的弱き人に手を差し伸べる系映画の皮を被っておきながら、その素顔は、高みから見下す人に対する鋭い批判となっている。 そしてこの手の映画祭最高賞を獲る映画は、問題を声高らかに叫ぶだけで大衆娯楽映画のようなエンターテイメント性が弱かったりするのだが、どちらも観ていて面白い描写が沢山詰まった作品に仕上がっている。 それでもって幾らでも深読みできるアート映画的難解さもあるのだ。 これは2010年代映画界が進化したところでしょう。 社会問題を描きつつもエンターテイメントとして面白く、アート性もある。 理想の映画のカタチを両作が示してくれました。 ポイント6:これは残念! この映画にバットマンの過去は要らない こう、ズラズラ語っていきましたが個人的に乗れなかったところがある。 そしてここがトッド・フィリップスの妥協点であろう。 私が、この映画を観てイマイチ乗れなかった。 というよりかは興醒めしてしまったポイントとして、バットマンことブルース・ウェインのエピソード0をこの映画の中でやってしまっていることだ。 大富豪トーマス・ウェインが実の父親だと知ったアーサーは豪邸まで行く、そこで若かれしころのブルース・ウェインと会ったり、終盤ジョーカーのパフォーマンスによって暴徒化した市民がブルース・ウェインの両親を殺す場面がサービスとして描かれるのだが、正直この描写は不必要だと感じた。 なんたって、本作はバットマンシリーズという領域を超えて、一人の男が狂人になる過程を描いた話だ。 ひょっとすると、「自分がコミックスに出てくる《ジョーカー》であると思い込んだ男の妄想」として深読みすることが可能だ。 敢えて自分をコミックのキャラクターと思い込む描写を排除することで、スクリーン外で「自分がコミックスに出てくる《ジョーカー》であると思い込む」という現象を引き起こし、本作はフィクションでない、今そこにある危機であることを主張しようとしているのではと考えることができるし、その方が非常に鋭い映画だと思うのだが、ブルース・ウェインを登場させることで、一気にアメコミ映画を超えて世界に革命を起こそうと飛躍しようとしている本作の足枷となってしまっている。 もしかすると、本当に飛躍してしまうと、世界がジョーカー信者の支配下になってしまうことを恐れたのか? この映画はジョーカーがロバート・デ・ニーロ演じるテレビの司会者を射殺した後、ダラダラと 《ブルース・ウェインがバットマンになるまでエピソード0》をやってしまう。 個人的には、司会者を射殺し、ジョーカーがカメラを覗き込んだところでThe Endとした方が締まりと深みがあって良いのではと思ってしまった。 最後に….

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