ドリフターズ 荒井 注。 ザ・ドリフターズ

ドリフだョ!全員集合(赤盤/青盤)

ドリフターズ 荒井 注

私の父が69歳で、亡くなって早や9年。 葬儀の時の弔辞を読んだのは私だ。 長男の兄はインドのとある宗派のお坊さんで、葬儀を取り仕切っていたし、母はとてもそんな状態ではなかったので、次男坊の私がその役を務めたのだ。 さて、人生の最期の時に捧げられる弔辞。 印象的だったのは、漫画家・ 氏への からの弔辞だ。 まだ記憶に新しい。 HUMAN〜追悼・氏…さんの弔辞 そしてそれに匹敵するのが、大好きだった のメンバーの 氏の葬儀の時の 氏の弔辞だ。 思わず泣けてくるメッセージだ。 その全文を紹介しよう。 【 弔辞 】 「出発間際の忙しい時に、とあんたは怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。 暮れに会った(フジカラーのCM)けど、あれ、良い仕事だったよね。 あんたも現場に来た時より、帰る時の方が元気だった。 みんなも喜んでた。 良い仕事だった。 覚えてるかな?あのときあんたがさ、 『今度は医者の言うことをよく聞いて、飲んでも良いってお墨付きをもらってるから、一緒に飲もう』って言ったこと。 結果的にあれが最期の言葉になっちゃたね。 今日ねえ、みんな来たかったろうけど、そうもいかなくて。 浮世のしがらみって奴で、高木と志村は仕事でね。 加藤はさあ、これが笑っちゃうんだけど、渋滞にはまっちゃって。 あいつらしいな。 あんたが行っちまうのを遅らせようとしてねえ。 いまハラハラ、ドキドキして向かっているところだと思うよ。 あんたもあれでねえ、よっぽど偉い人というか、変な人というか…。 カラッケツでドリフを始めて、飛行機で言えば離陸する大変な時にいてくれて、それから何とか先が見えてきて、さあ、これから楽になるぞ、お金も儲かるぞという時に辞めちゃった。 あの時はあんたの人生哲学が理解できなかった。 『極力みんなに迷惑かけないようにする』って、辞めると言ってからも半年は続けてくれた。 あの半年のあんたは凄かった。 鬼気迫るというか、本当に面白かった。 あんまり面白かったから、気が変わって『残る』と言うかなとも思ったけれど、あんたとうとう言わなかったね。 スパッと辞めちゃった。 もうあんたは行くんだよな、止めても無駄だと分かってはいるけど、こっちはあの時と同じ立場にいるような気がするよ。 行くな、とは言わないぜ。 途中、気を付けてな。 飲もうぜ、絶対に飲むんだよ。 飲まなきゃ駄目だ。 おい、飲むんだぞ!長話すると嫌われるから、この辺でな。 飲む場所はあんたが決めといてくれ。 じゃあ、いずれ」 2000年2月11日 静岡・式典会館白寿にて で、どれだけ笑ったか。 そしてこの弔辞でどれだけ泣いたか。 もう、私は弔辞を読むことはないだろう。 読みたくない。 いや、でも読むときは万感の感謝の思いを込めて読む。 でもやっぱり読みたくないよね。 lp6ac4.

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荒井注は元ドリフでオルガン!ギャグThis is a pen!何だバカヤロウが大ウケ!

ドリフターズ 荒井 注

荒井注 プロフィール 氏名:荒井注 生年月日:1928年7月30日 出身地:東京都 所属事務所:渡辺プロダクション(ザ・ドリフターズ時代) デビュー:1964年 同期:萩本欽一 など 持ちネタ:なんだ馬鹿野郎、何見てんだよ、文句あるかい、This is a pen! はじめは、ピアノが上手いと思ってスカウトしたのですが演奏はまるでダメだったものの、「ふてぶてしい」荒井注さんのキャラクターがお茶の間に受けてドリフターズ人気を確固たるものにしていきます。 ドリフ人気の高まりとともに、8時だョ! 全員集合は人気番組に成長、なんだ馬鹿野郎、何見てんだよ、文句あるかい、This is a pen! などのギャグが子どもたちを中心に大人気となります。 1974年3月には、「体力の限界」を理由にドリフを脱退、脱退後も芸能界に残り俳優などで活躍しました。 2000年2月には、肝不全のため死去、71歳没 ブレイクのきっかけ 荒井注さんブレイクのきっかけは、やはりオバケ番組となった「8時だョ! 全員集合」。 お笑いとは思えないほどのふてぶてしいキャラが新鮮で逆にウケる結果となり、荒井注さんが放つギャグであるなんだ馬鹿野郎、何見てんだよ、文句あるかい、This is a pen! などのギャグが流行語になるなどしました。 なんだ馬鹿野郎 ギャグの評価は? 良い評価 「あ!!俺かぁ!!俺なっちゃおうかなー。 なんだ馬鹿野郎!!って荒井注さんみたいに」 「なんだ馬鹿野郎」と言えば、私は真っ先に荒井注を思い出します。 葬儀の際に、ドリフターズ脱退したころは不仲説も囁かれていたいかりや長介さんの弔事が素晴らしいと絶賛を受けています。 いかりやさんは、「行くなとはいわない、だから気をつけて行け。 ついたら場所を取っておいてくれ。 オレも行かねばならないから。 かならず」、そして一時の沈黙の後「いずれまた・・・」と。 人間の無常さを感じとり、自分もまた死んでゆかねばならない身であるという事実を、しっかりと受けとめている姿に凄いという声が多く挙がったのです。 解説:日本人でも意味がわかる簡単な英語を、場にそぐわないタイミングで真顔で言い放つというギャグ おわりに 今回は、荒井注さんの「なんだ馬鹿野郎」についてお送りました。 今の時代だったら「馬鹿野郎」でギャグなんて考えられないですが、今のカンニング竹山さんのようなキレ芸芸人の走りと考えたら先進的ですね。

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荒井注

ドリフターズ 荒井 注

ドリフでの呼び名は「ハゲ」や「ハゲ注」… ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍したのが「荒井注」さんです。 そんな荒井注さんは1974年3月にドリフターズを脱退しているのですが、その理由は一体どのようなものだったのでしょうか? 名前:荒井注(あらいちゅう) 本名:荒井安雄(あらいやすお) 生年月日:1928年7月30日~2000年2月9日(享年71歳) 職業:俳優、タレント、コメディアン 出身:東京都 学歴:二松學舍大学文学部国文学科 Sponsored Links 1974年3月30日、渋谷公会堂ではいつもの土曜日と同じように「8時だョ!全員集合」の生収録が行われていました。 会場を埋め尽くす子供たちの歓声も普段と変わりません… ただ一つ違うのは、荒井注(当時45歳)さんにとってザ・ドリフターズとしての最後の舞台だったということです。 同月11日、ドリフは記者会見を開き、荒井さんの休業を発表していました。 休業といってもカムバックの予定はまったくなく、実質的な脱退だったのです。 「ディス・イズ・ア・ペン」や「なんだ、バカヤロウ!」のギャグで人気を誇っていた荒井さんがリーダーのいかりや長介さんに、「辞めたい」と申し入れたのは前年の6月… その2カ月前に「全員集合」は最高視聴率50. 5%を叩き出していました。 荒井さんがいかりやさんに誘われてドリフに参加したのは、東京五輪のあった1964年秋… 当初はキャバレー回りばかりでメンバー5人で、月25万円という収入だったといいます。 そんな苦労を乗り越え、やっとトップの座に上り詰めた途端の脱退表明は誰もがいぶかったのです。 いかりやさんに慰留されていったんは保留したものの、荒井さんの意思は変わりませんでした。 そこでいかりやさんは、ドリフのバンドボーイをしていた志村けんさんに白羽の矢を立てたのです。 1974年初めから試験的に「全員集合」に志村さんを出演させ、なんとかいけそうという感触を得て荒井さんの脱退が認められたのでした。 それにしても、荒井さんはなぜドリフの絶頂期に辞めようとしたのでしょうか? この点に関しては、自分より3歳下のいかりやさんのワンマンぶりが気に入らなかったとか… ギャラの配分に不満があった… などといった憶測が流れました。 しかし、実は荒井さんは本当に疲れ切っていたのです。 40代半ばの身としては、15歳も歳下の加藤茶さんらと一緒に毎週、舞台の上で跳びはねるのが辛くなっていたのです。 それほど欲がある人ではなく、この辺でいいやという気持ちになったのだそうです。 ドリフを辞めた荒井さんは、夢だった釣り三昧の生活に入りました。 二松学舎大学時代の学友たちの家を回り、全国各地の海や川で一日中、釣り糸を垂らしたのです。 しかし、のんびりした日々は長くは続きませんでした。 脱退から半年もたたない8月、荒井さんにドラマの出演依頼が舞い込んだのです。 10月中旬からスタートする「時間ですよ・昭和元年」… 役どころは森光子さんの夫役でした。 プロデューサーの久世光彦さんが荒井さんのとぼけたキャラクターを気に入って口説き落としたのです。 「辞める時、復帰は考えていないと語っていただけに、ドリフのメンバーが約束違反だと怒っている」… との報道もされましたが、事実は異なり、出演に際して荒井さんが真っ先に相談したのはいかりやさんでした。 いかりやさんから「ぜひ出るべきだ」と背中を押されたのです。 その後もドラマで活躍した荒井さんは2000年2月9日、自宅で入浴中に急逝… 71歳のときでした。 以前から患っていた肝不全が原因でした。 「飲む場所はあんたが決めといてくれ。 じゃあ、いずれ」… と弔辞を述べたいかりやさんも、その4年後に後を追うように亡くなりました。

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