無名草子 紫式部。 17 『源氏物語』は古人にどう評価されたか。

無名草子 現代語訳

無名草子 紫式部

歳 とし月の積りに添へて愈昔は忘れがたく、ふりにし人は戀しきまゝに、人知れぬ忍び音のみ泣かれて、苔の袂も乾く夜なき慰めには、 花籠 はなこを臂に掛けて、朝毎に露を拂ひつゝ、野邊の草むらに交りて花を摘みつゝ、佛にたてまつるわざをのみして、數多年經ぬれば、いよいよ頭の雪積り、面の浪も疊みて、いとゞ見ま憂くなり行く鏡の影も、我ながら疎ましければ、人に見えむこともいとゞつゝましければ、みちのまゝに花を摘みつゝ、 東 ひんがし山わたりをとかくかゝづらひ 歩 ありく (*物につかまって歩く)程に、やう\/日も暮れ方になり、たち歸るべき 住所 すみかも 遙 はるけければ、「 何處 いづくにても行き止まらむ所に寄りなむ。 」と思ひて、「三界無安猶如火宅。 (*法華經譬喩品にある語で、「…衆苦充滴 (*充滿か。 )甚可 2畏怖 1。 」とつづく。 さて三界とは、欲界・色界・無色界のこと。 (*迷界))」と口誦みて歩み行く程に、最勝光院 (*建春門院平滋子の願で後白河天皇が創建。 承安三年 1173 建立、嘉禄二年 1226 焼失。 東山の今熊野又は南禅寺境内という。 ) (*藤原定家「明月記」に「土木の壯麗、莊嚴の華美、天下第一の佛閣なり。 」とあり。 )の大門あきたり。 嬉しくて歩み入るまゝに、御堂のかざり佛の 御 おん樣などいとめでたくて、「淨土もかくこそ。 」といよ\/そなたにすゝむ心催さるゝ心地して (*愈々佛道修行に專心する。 信心の心が深くなる)、昔よりふるき御願ども (*御願寺)多く拜み奉れど、かばかり御心に入りたりけるほど見えで、かねの柱・たまの幡を始め (*佛殿内の裝飾のきらびやかさをいふ。 かねは金銀、たまは珠玉のことであるが、こゝでは美稱)、障子の繪まで見どころあるを見はべるにつけても、まづ、「 (*建春門院〔平時信女、後白河天皇女御、高倉天皇生母。 嘉応元年 1169 院号宣下。 藤原俊成女建春門院中納言(健御前)が仕え、「建春門院中納言日記(健寿御前日記・たまきはる)」を著した。 〕は)此の世の御さいはひも極め、後の世もめでたくおはしましけるよ。 」と、羨しく伏し拜み、たち出でて、西ざまにおもむきて、京の方へ歩み行くに、都のうちなれど、こなたざまは無下に山里めきていとをかし。 「いかなる人のすみ給ふにか。 」と、あはれに目とまりて、やう\/歩み寄りて見れば、築土も所々崩れ、門の上などもあばれて、人住むらむとも見えず、たゞ寢殿・對・渡殿などやうの屋ども (*原文「宿も」)少々、いとことすみたるさま (*殊に澄みたる様〔人少なでひっそりとした様子〕の意か。 )なり。 庭の草もいと深くて、光源氏の露わけ給ひけむ蓬も所得顔なる中をわけつゝ、中門 (*中門廊から寝殿の南庭に通じる門)より歩み入りて見れば、南面の庭いと廣くて、呉竹 (*淡竹)植ゑわたし、卯の花垣根など、まことに、杜鵑かげに隱れぬべし (*新古今夏歌に柿本人丸「鳴く聲をえやは忍ばぬ郭公はつ卯の花のかげにかくれて。 山里めきて見ゆ。 前栽むら\/いと多く見ゆれど、まだ咲かぬ夏草の繁みいとむつかしげなる中に、撫子・ちやう春 花 げ (*長春 花 か=庚申薔薇〔四季咲き薔薇〕・金盞花)ばかりぞいと心よげに盛りと見ゆる。 軒近き若木の櫻なども、花盛り思ひやらるゝ木立をかし。 南おもてのなか二間ばかりは、持佛堂などにやと見えて、紙障子 (*明り障子)白らかに閉てわたしたり。 ふだんかうの煙氣高き (*「けぶたき」とする本もある由。 あるいは「気・高き」か。 )まで燻り滿ちて、妙香の香など 芳 かんばし。 「まづ佛の 坐 おはしましける。 」と思ふもいと嬉しくて、 花籠 はなこを臂に掛け、檜笠 (*原文「日傘」。 以下同じ。 )を頸につらされながら (*花籠を腕に掛けているのでおのずから吊り下げた格好のままで)、縁に歩み寄りたれば、寢殿の南東とすみ二間計りあがりたる御簾の内に、 箏 しやうの琴 (*十三絃の琴)の音ほの\〃/聞ゆ。 いとすゞろ (*に)、にくく (*「心にくく」ともいう。 )床しきに、若やかなる女聲にて、 「人竝々の事には侍らざりしかども、恥ぢながら十六七に侍りしより、皇嘉門院と申し侍りしが御母の北の政所に侍ひて、讚岐院・近衞院など位の御時、百々敷の内も時々見侍りき。 さて、失せさせ給ひしかば、女院にこそ侍ひぬべく侍りしかども、猶九重の霞の迷ひに花を弄び、雲の上にて月をも眺めまほしき心あながちに侍り。 後白河院位に 坐 おはしまし、二條院東宮と申し侍りし頃、その人數に侍らざりしかど、おのづから立ち馴れ侍りし程に、さるかたに人にも許されたるなれ者になりて、六條院・高倉院などの御世まで時々仕うまつりしかども、つくもがみ苦しき程になり侍りしかば、頭おろして山里に籠りゐ侍りて、一部讀み奉ること怠り侍らず。 今朝疾く出で侍りて、とかく惑ひ侍りつる程に、今まで懈怠し侍りにけり。 」 「花・紅葉を弄び、月・雪に 戲 たはるゝにつけても、この世は捨て難きものなり。 情けなきをも、あるをも嫌はず、心なきをも、數ならぬをも分かねば、斯樣の道許りにこそ侍らめ。 それにとりて、夕月夜仄かなるより、有明の心細き折も嫌はず、所もわかぬものは、月の光ばかりこそ侍らめ。 夏も、まして秋・冬など、月明き夜は、そゞろなる心も澄み、情けなき姿も忘られて、知らぬ昔・今・行くさきもまだ見ぬ高麗・唐土も殘る所なく、遙かに思ひやらるゝ事は、たゞこの月に向ひてのみあれ。 されば、王子猷は戴安道を尋ね、蕭史が妻の月に心を澄まして雪に入りけむも理とぞ覺え侍る。 この世にも月に心を深くしめたる例、昔も今も多く侍るめり。 勢至菩薩にてさへ坐すなれば、暗きより暗きに迷はむしるべまでもとこそ、頼みをかけ奉るべき身にて侍れ。 」 「また此の世にいかで斯かることありけむとめでたく覺ゆることは、文にこそ侍るなれ。 枕草紙に返す\/申して侍るめれば、事新しく申すに及ばねど、なほいとめでたきものなり。 遙かなる世界にかき離れて、 幾歳 いくとせ逢ひ見ぬ人なれど、文といふものだに見つれば、ただ今さし向ひたる心地して、なか\/打ち向ひては、思ふ程もつゞけやらぬ心の色もあらはし、言はまほしき事をもこま\〃/と書きつくしたるを見る心は、珍しく、嬉しく、相向ひたるに劣りてやはある。 つれ\〃/なる折、昔の人のふみ見出でたるは、たゞ其の折の心地して、いみじく嬉しくこそ覺ゆれ。 況して、亡き人などの書きたる物など見るは、いみじく哀れに、年月の多く積りたるも、たゞ今筆打ちぬらして書きたるやうなるこそ、返す\/めでたけれ。 たゞさし向ひたる程のなさけばかりにてこそ侍れ。 これは昔ながら露變ることなきもめでたき事なり。 」 「事新しく申すにはあれど、此の世に入りて第一にめでたく覺ゆることは、阿彌陀佛こそおはしませ。 念佛 ねぶつの功徳のやうなど、初めて申すべきならず。 『南無阿彌陀佛。 』と申すは、返す\/めでたく覺え侍るなり。 人の怨めしきにも、世の業の侘しきにも、ものの羨しきにも、めでたきにも、たゞ如何なる方につけても、強ひて心にしみて物の覺ゆる慰めにも、『南無阿彌陀佛。 』とだに申しつれば、如何なる事もこそ、疾く消失せて慰む心地する事にて侍れ。 人はいかゞ思さるらむ。 身にとりては斯く覺え侍れば、人のうへにもたゞ『南無阿彌陀佛。 』と申す人は思ふならむと、心にくく奧床しく、哀れにいみじくこそ侍れ。 左衞門督公光と聞えし人、本みなれたる宮仕へ人の、こと心などつかひけると聞きて後、『たま\/行き逢ひて、 (*原文の引用符は、左衛門督公光から。 )今はその筋の事など露かけず、大方世の物語・ 内裏 うちわたりの事ばかり、言少なにて、「南無阿彌陀佛。 南無阿彌陀佛。 」といはれて侍りけるこそ、 來 きしかた行く先の事言はむよりも恥しく、汗も流れていみじかりしか。 』と語る人侍りしか。 況して後の世のため、いかばかり功徳の中に、何事をか愚なると申すなかに、思へど\/めでたく覺えさせ給ふは、法華經こそおはしませ。 いかに面白くめでたき繪物語といへど、二三べんも見つれば、うるさきものなるを、これは千部を千部ながら聞くたびに珍しく、文字ごとに始めて聞きつけたらむ事のやうに覺ゆるこそ、あさましくめでたけれ。 『無二無三。 』と仰せられたるのみならず、『法華最第一。 』と 有 あめれば、こと新しく斯樣に申すべきにはあらねど、さこそは昔より言ひ傳へたる事も必ずさしも覺えぬ事も侍るを、これは『たま\/生れあひたる思ひ 出 いでに、たゞあひ奉りたるばかり。 』とこそ思ふに、など『源氏』とてさばかりめでたきものに、此の經の 文字 もじの一偈一句おはせざるらむ。 何事か作り殘し、書き洩したること一言も侍る。 これのみなむ第一の難と覺ゆる。 」 「末摘花、好もしといふとて、にくみ合せ給へど、大貳の誘ふにも心づよく靡かでしにかへり、昔ながらの住ひ改めず、終に待ちつけて、『深き蓬のもとの心を。 』とて、わけいり給ふを見る程は、誰よりもめでたくぞ覺ゆる。 みめより始めて、何事も 斜 なのめならむ人のためには、さばかりの事のいみじかるべきにも侍らず。 其の人がらには、佛にならむよりも有難き宿世には侍らずや。 六條の 御息所 みやすどころは、餘りに物怪に出でらるるこそ怖しけれど、人ざまいみじく心にくく、好もしく侍るなり。 御子の中宮も我から心もちゐなど、いみじく心憎き人の中にも、ませ聞えつべきかなどやらむとねましき (*「ねたましき」の誤脱か。 )は、源氏の大臣の、餘りにもてなし給ふが心づきなかるべし。 玉鬘 たまかつら (*ママ)の姫君こそ好もしき人とも聞えつべけれ。 みめかたちを始め、人ざま・心ばへなど、いと思ふやうによき人にておはする上に、よにとりてとり\〃/におはする。 又、ものはかなかりし夕顔の、ゆかりともなく、餘りに誇りかにさが\〃/しくて、『この世にかゝる親の心は。 』などいへるぞ、あの人の御さまには、ふさはしからず覺ゆる。 又、筑紫下りも餘り品くだりて覺ゆる。 されど、大かたの人ざまは好もしき人なり。 いとほしき人。 紫の上、限りなくかたひしく、いとほしく、あたりの人の心ばへもいとにくき、父宮を初め、おほぢの僧に至るまで、思はしからぬ人々なり。 繼母などの心ばへさるべき仲なれど、さばかりになりぬる人の爲に、いと然しもやはあるべき。 夕顔こそいといとほしけれ。 母にも似ず、いみじげなる 女 むすめもちたるぞ、その身の有樣にはさらでもありぬべき。 斯樣ならむ人は、たゞ跡方もなくやみなむこそ、いま少し (*原文「今少し」)忍び所もあらめ。 まめ人の北の方、藤の裏葉の君、むげに艷ある樣なんどぞ見えざめれど、何となく幼くよりいとほしき人に思ひ初めてし人なり。 宇治の中の君こそ、いといとほしけれ。 初めはいとさしも覺えざりしかど、兵部卿の宮まめ人の壻になりて、物思はしげなるがいとほしきなり。 況して、『かばかりにてやかけ離れなむ。 』などいへるは、見るたびに涙 止 とゞまらずこそ覺ゆれ。 女三の宮こそいとほしき人とも言ひつべけれど、『袖濡らせとや蜩の』と詠みて、『月待ちてもといふなるものを。 』などある程は、いと心苦しきを、餘りにいふ甲斐なきものから、さすがにいろめかしき所の 坐 おはするが心づきなきなり。 斯樣の人は、一筋に子めかしく、おほどきたればこそらうたけれ、あさましき文、大臣に見ゆる事も、その御心のしわざぞかし。 さることありと思すらむには、とゞまらむをだに、しひてそゝのかしいだしてむとぞ思さる (*原文「覺さる」)べきを、さかしらに心苦しげなる事どもいひとゞめて、さる大事をばひき出し給へるぞかし。 手習ひの君こそ、憎きものとも言ひつべき人、さま\〃/身を一方ならず思ひ亂れて、 もろともに おほうちやまに いでつれど ゆくかたみせぬ いざよひのつき といへる、又、源内侍のすけの許にて、太刀拔きて 脅 おどし聞えし 樣 やうのことは、いひつくすべくもなし。 何事よりも、さばかり煩はしかりし世の騷ぎにも 觸 さはらず、須磨の御旅住みの程尋ねまゐり給へりし心深さは、世々を經とも忘るべくやはあると、それ思ひ知らすよしなきとりむすめして、かの大臣の女御といどみきしろはせ給ふ、いと心憂き御心なり。 繪合のをり、須磨の繪二卷とり出でて、かの女御負けになし給へるなど、返す\/口をしき御心なり。 また須磨へ坐する程、さばかり心苦しげに思ひ入り給へる紫の上も具し聞えず、せめて心澄まして一筋に行ひ勤め給ふべきかと思ふ程に、明石の入道が壻になりて、日ぐらし琵琶の法師と向ひゐて、琴ひきすまして坐する程、むげに思ひ所なし。 また、さま\〃/なりし御ことしづまりて、今はさるかたに定まりはて給ふかと思ふ世の末に立ち歸りて、女三の宮まうけて若やぎ給ふだにつきなきに、衞門督のこと見あらはして、然ばかり怖ぢ憚りまうでぬものを、強ひて召し出でてとかく言ひまさぐり、果てには睨み殺し給へる程、むげに怪しからぬ御心なりかし。 すべて斯樣のかたに、つしやかなる御心のおくれ給へりけるとぞ覺ゆる。 兵部卿の宮、さして其の事のよしあしなどは覺えぬ人の、源氏の大臣の御 同胞 はらからいと多かる中に、とりわき御仲よくて、何事も先づ聞え合せ給ふ、いと心憎きなり。 玉かつら (*ママ)の御事えしえ給はぬ (*不明。 )、むげに心おくれたり。 大内山の大臣、いとよき人なり。 況して須磨へ尋ねおはしたる程など、返す\/めでたし。 まめ人をいたく侘びさせたるこそ怨めしけれど、そも理なりや。 名殘なく思ひ弱りてゆるす程などは、いとよくこそせられためれ。 まめ人の大將、若き人ともなく、餘りに 美 うるはしだちたるはさう\〃/しけれども (*原文「騷々しけれども」)、つしやかなる 容姿 かたちは大臣にも勝り給へり。 樣々聞ゆる事どもにも靡かで、藤の裏葉のうらとけ給ふを、心長く持ちつけ (*「待ちつけ」か。 )たまへる程ありがたし。 女だにさる事はいかでかはとぞ覺ゆる。 さて、いと思ふやうに住みはて給ひにたる世の末になりて、よしなき落葉の宮まうけて、まめ人の名を改め、さま變り給ふぞ、思はずなるや。 柏木の衞門督、初めよりいとよき人なり。 『岩漏る中將』などいはれし程より、藤の裏の葉のうらとけし程なども、いとをかしかりし人の、女三の宮の御事、さしも命に換ふばかり思ひ入りけむぞもどかしき。 諸共に見奉り給へりしかど、まめ人はいでやと心劣りしてこそ思へりしに、さしも心にしめけむぞ、いと心劣りする。 紫の上はつかに (*原文「はづかに」)見て、野分の朝眺め入りけむまめ人こそいといみじけれ。 風の程いと哀れにいとほしけれど、そも餘り身の程思ひ屈じ、人わろげなるぞさしもあるべきかと覺ゆる。 その大臣の紅梅の大納言といふ人、韻塞ぎの折、高砂謠ひしより初め、辨少將などいひて、藤の裏葉にて蘆垣謠ひし程なども、いといたかりし人の、源氏など失せ給ひて、末の世に『鳥なき島の 蝙蝠 かはほり』とかやして、薫大將の帝の御壻になるを 妬 そねみて、呟きなどし 歩 ありく程こそ心づきなけれ。 匂ふ兵部卿の宮、若き人の 戲 たはれたるはさのみこそといふなるに、怪しからぬ程に色めき、すき給ふこそふさはしからね。 紫の上のとりわき給へりしゆゑ、二條院にすみ給ふこそいと哀れなれ。 薫大將、初めより終りまで、さらでもと思ふふし一つ見えず、返す\/ (*原文「返へす\/」)めでたき人なんめり。 まことに光源氏の御子にてあらむだに、母宮のものはかなきを思ふにはあるべくもあらず。 紫の御腹などならば、さもありなむ。 すべて物語の中にも、まして現の中にも、昔も今もかばかりの人は有難くこそ。 」 みしひとの あめとなりにし くもゐさへ いとどしぐれに かきくらすかな とあるところ、又、らうたくし給ふ童の、かざみの 裝束 しやうぞくなべてよりも濃くて、いみじくくんじ濕りて候を、いと哀れに思して、とりわきらうたくし給ひしかば、『われを然なむ思ふべき。 』と慰め給へば、いみじく泣きて御前に候ふ所など、いと哀れなり。 又、御忌果てて君も出で給ひ、日頃さぶらひつる女房ども、おの\/『あからさまに。 又、かき給へる 御 おん手習ども、大臣見て泣き給ひなどするも、すべて哀れなるなり。 須磨の別れの程の事も、葵の上の古里に、まかり申しにおはして、.

次の

紫式部とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

無名草子 紫式部

====== 「同じことを繰り返して言うようですが、いくら言っても言い尽くせないほどうらやましく結構なことは、大斎院から上東門院のもとに、『所在ない気持ちを慰められるような物語がありますか。 』と、お尋ね申しあげなさったところ、(上東門院が)紫式部をお呼びになって、『何を献上したらよいだろうか。 』とおっしゃったので、『珍しい作品は何もございません。 新しく作って献上なさいませ。 』と申しあげたところ、『(では、そなたが)お作り。 』とおっしゃったのをお引き受けして、『源氏物語』を作ったということですが、それはすばらしく結構なことです。 」と言う人がありますと、 また(別の一人が)、「まだ宮仕えもしないで自宅におりました時、こうした物語を作り出したのでお召し出しになって、その(物語の)ために紫式部という名前をつけたとも申しますのは、どちらが本当でございましょうか。 その紫式部の日記というものがございました(が、それ)にも、『参内した初めのころは、りっぱな人だから気恥ずかしくもあり、気が置けるようでもあり、また、つきあいにくくもあるだろうと、(女房たちは)各自(私に対して)思っていたところ、(接してみると)たいそう意外なほどばんやりしていて、未熟で、一という文字さえ書けないような様子だったので、こんなだとは思わなかったと友達の女房たちが思っていられる。 』などと見えております。 主君(道長公)の御様子などを、たいそう結構なことにお思い申しあげながらも、ほんのわずかでも好色めいてなれなれしい態度で書いていない点もすばらしく、また皇太后官(中宮彰子)の御事をこの上なく結構なものとしてお書きするにつけても、(その中に)心もうち解けてきて親しくお仕えしたあたりのことも、また道長公の御様子も(彼女に対して)たいそう親しみを持っておられたことなどを書き表しているのも、(紫式部の)性格には似つかわしくないようであるようです。 (しかし)一方これはまた(道長公の)御性格のあらわれでありしょう。 」 ====== これで間に合うでしょうか?.

次の

無名草子『清少納言』解説・品詞分解(1)

無名草子 紫式部

概要 [ ] 書名『無名草子』は後代の命名で、原本の表題は不明。 『無名物語』、『建久物語』などの異名がある。 また、『』が言及する『尼の草子』や、伴直方『物藷書目備考』に見える『最勝光院通夜物語』も、本書を指している可能性がある。 作者は、通説では(越部禅尼)とされ、(7年)から(2年)頃の成立であると推定されている。 作者に擬せられたことのある人物は、この他に、、らがある。 また、俊成女が後年出家して嵯峨に隠棲してからの作とする見方もある。 若くしての母北政所に仕えた八十三歳の老尼と、東山の麓に住む若い女房たち の対話形式をとり、「序」「物語批評」「歌集批評」「女性批評」の四部からなる。 序は、作品全体の1割を占める長大な導入部で、老尼が東山の閑居を発って長い道のりをあてもなく歩き、途中で寺院 に参拝し、やがて檜皮屋を見つけてそこに居た女房達と言葉を交わす。 この「序」の構造を作品世界の象徴とする見方もある。 物語批評では『』の各巻や登場人物、印象的な場面に関する短評を先頭に、『』『』『みつの浜松()』『』ら中古のについての議論を交わす。 本書における「さても この源氏作りいでたることこそ 思へど思へど この世ひとつならず めづらかにおぼゆれ」の評言は広く知られた。 歌集批評は、『』『』などのに始まり、『』以下、勅撰七代集 ・私撰集・の類に触れる。 最後の女性批評は、・・・・・ [ ]ら宮廷の花を語るが、中でも作者が賛美したかったのは、・・・の四人であったらしい。 各人物のエピソードには、『』からの参照が多く見られる。 そして男性論は『』の類に任せるとして、筆を置く。 無名草子は散逸物語の研究資料としてのみならず、中世初期における人々の中古文学享受史が伺える貴重な作品である。 伝本 [ ]• 『建久物語』 二年奥書、津守国冬奥書。 蔵藤井乙男旧蔵本 『無名物語』 二年奥書、二年奥書、廿一年奥書、五年津守則棟奥書。 本、無窮会図書館本(群書類従本転写本)(奥書に『無名草子』) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 本文中に「建久七年」の年号が見えること、((建仁2年)中将昇進)が「」と表記されていること、『』への言及がないこと等による。 更に絞って、(2年)から(元年)とする説もある(樋口(参考文献))。 この老尼を藤原俊成の長女であり後白河院の女房であった京極局、そのほかの女房達を俊成の娘達や孫娘である作者に比定する見方もある(樋口(参考文献))。 本文に最勝光院と記されている。 建春門院()の願により建立された。 東山の麓、鴨川の東、八条の北に位置する(杉山信三 「建春門院の最勝光院について-法住寺殿の御堂に関する研究 2-」 『日本建築学会研究報告』 1956年3月 )。 ここを出て西に向かうとすぐ川に行き当たったはずだが、本文中では架空の田園風景と檜皮屋を配している。 俊成の撰になる『』についても、歌そのものの質より作者に配慮し過ぎていると批判的に触れている。 出典 [ ]• 高橋(参考文献)• 萩原(参考文献)• 中村(参考文献)• 薗部(参考文献) 参考文献 [ ]• 作品本文• 校注『無名草子』() 1976年12月ISBN 4106203073 初心者向きの平易な頭注を持つ。 その他、『 古代中世芸術論』・にも注釈つきの本がある。 「袋草子・無名草子の成立時期について-付、藤原範永の没年」 『国語と国文学』 47-4 1970年4月• 荻原さかえ 「」 『駒澤國文』17,143-154 1980年3月• 中村文 「」 『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』 5,275-290 2005年12月• 高橋亨 「無名草子における引用関連文献の総合的調査と研究」 『平成13年度-平成15年度科学研究費補助金 基盤研究 c 2 研究成果報告書』 2004年5月 文学研究科• 薗部幹生 「」 『駒澤國文』 22,81-98 1985年2月 関連項目 [ ]•

次の