ペリー 来航 いつ。 黒船来航

黒船来航

ペリー 来航 いつ

この日米修好通商条約は朝廷の許可なく結ばれました。 岩倉具視ら多数の公家が日米修好通商条約を締結することに反対し、孝明天皇は条約締結を拒否しました。 開国後の日本 貿易が開始されたことにより、安価な綿製品が大量に輸入、生糸、お茶の値段が高騰します。 商人による米や生糸の買い占め、金の流出と銀の流入を防ぐために質の悪い万延小判が発行、インフレを招いて経済が混乱します。 下級武士、庶民の暮らしは大打撃を受け、幕府への不満が高まります。 1858年、井伊直弼は幕府を批判する者を厳しく処罰 安政の大獄 、長州藩士の 吉田松陰らが殺されました。 後に将軍となる徳川慶喜も日米修好通商条約を締結した井伊直弼を詰問したかどで、謹慎処分を受けました。 井伊直弼はもと水戸藩の藩士によって、殺されてしまいます 桜田門外の変。 井伊直弼は彦根藩主、井伊掃部頭 かもんのかみ 直弼とも称しています。 吉田松陰と松下村塾 吉田松蔭が主宰した 松下村塾の塾生には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末~明治に活躍した人物が多くいました。 桂小五郎 木戸孝允 は松下村塾の塾生ではありませんが、明倫館で松蔭に教わっていました。 安政の大獄と西郷隆盛 勤王派の僧である月照も安政の大獄で幕府から追われるようになりました。 西郷隆盛は自身の恩人でもある月照を保護しようとしましたが、薩摩藩では月照の追放を決めてしまい、西郷は月照と入水をし、西郷のみが助かりました。 ・ 尊王=天皇 朝廷 を尊ぶ ・ 攘夷=外国人を排除する 幕府は朝廷との結びつきを強める 公武合体策を進め、天皇の妹である 和宮を14代将軍家茂と結婚させます。 薩摩藩は1862年にイギリス人を殺害する 生麦事件を、翌年薩英戦争が起こります。 長州藩は1863年下関海峡の外国船を砲撃 下関戦争 、翌年イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊に砲撃されるという事件が起こります。 江戸幕府の終わり 15代将軍慶喜は政権を朝廷に返し、旧幕府軍と新政府軍が戦って負け、江戸幕府がついに終わりを迎えます。 薩長同盟 1866年、 西郷隆盛 薩摩藩 と 木戸孝允 長州藩 が 坂本龍馬 土佐藩 が仲介して同盟を結びました。

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年表

ペリー 来航 いつ

「幕末」はいつ始まったのか、といえば、1853年(嘉永6年)のペリーの黒船来航からというのが一般的な意見です。 幕末好きは、幕末好きというだけあって、黒船来航からは興味あるけど、その前はちょっと・・・という人が多い気がします。 しかし、幕末へと続く不穏な空気は、すでに黒船来航の60年以上前から始まっていました。 幕末を知るには、幕末前夜から。 今回は、「異国船打払令」や「蛮社の獄」など、「 そういえば教科書で見たよね」というキーワードを交え、幕末前夜についてお伝えしていきます。 幕末前夜はどんな状況だった? 江戸幕府は、200年以上にわたり鎖国をしていました。 完全な鎖国ではありませんが、外国との貿易は、長崎の出島で中国とオランダに限られていたので、ほとんどの日本人は、外国の情報など知ることもありませんでした。 外国の情報を知ることができたのは、 幕府の上層部やオランダ語がわかる蘭学者や蘭方医など、ごく限られた人だけです。 ちなみに、オランダ人との交流が禁止されていた江戸時代に、蘭学者や蘭方医が誕生したのは、八代将軍・徳川吉宗が、技術を取り入れるためにオランダからの本の輸入を解禁したからです。 (医学書の『ターヘルアナトミア』など) さて、 1700年代後半になると、日本近くの海で、ちょいちょい外国船が目撃されるようになります。 その頃、欧米では産業革命がおこり、世界中に市場や原料・資源をもとめて旅する時代になっていました。 特にロシアは、東方に向けて領土を拡大。 日本に近づくために、日本人漂流者を講師に招いて、日本語学校まで作っていました。 田沼意次とロシア。 日本はもっと早く開国していたかも? そんな状況で、いち早く「ロシアに備えるべし!」と説いたのが、仙台藩の藩医・ 工藤平助です。 工藤は、蘭方医・前野良沢などと交流があり、ロシアに危機感を持っていました。 前野良沢は、杉田玄白とともに、『ターヘルアナトミア』の翻訳本である『解体新書』を書いた人ですね。 工藤平助は、北方海防の重要性を知ってもらうために『 赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)を著します。 (赤蝦夷とは、ロシア人のことです) これが、 老中・田沼意次の目にとまります。 田沼も、蝦夷地の開発に関心を持ち、ロシアの脅威に備える必要性を感じていました。 そして、蝦夷地に探索隊が派遣されることになったのです。 幕末前夜の混乱。 異国船打払令、 薪水給与令、そして蛮社の獄。 1792年(寛政4年)、 ロシアのラスクマンが「日本と通商したい」と、根室にやってきます。 これが、鎖国以来初めて日本に交渉しにきた外国船です。 そのあとも、イギリスやアメリカが通商を求めましたが、幕府はすべて拒絶します。 (通商とは国家間の貿易のことです) さらに、イギリス船がオランダ国旗を掲げて長崎に入港した「フェートン号事件」(1808年)、水戸藩領にイギリス人が上陸した「大津浜事件」(1824年)などがおこり、幕府は1825年(文政8年)に「 異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を出します。 ところが、1842年(天保13年)に、 アヘン戦争で清(中国)がイギリスに惨敗し、幕府は西洋の軍事力のすごさを知ることになります。 しかも清は、香港を渡すなど不平等条約(南京条約)を結ばされ、幕府、びびりまくりです。 そこで幕府は、1842年に遭難した船に限って、水や燃料を与える「 薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を出します。 この法令を出した理由は、日本人漂流民を送り届けにきたアメリカの商船モリソン号を、軍艦と間違えて砲撃した「モリソン号事件」(1837年)の後ろめたさもあったといいます。 「モリソン号事件」を批判した人を弾圧したのが「 蛮社の獄」(ばんしゃのごく)です。 これにより、高野長英や渡辺崋山などが捕らえられました。

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ペリー浦賀来航(第1回目)

ペリー 来航 いつ

日本の首脳はペリー(黒船)が来航することを事前に知っていた 西暦1853年6月3日、アメリカから日本の浦賀にペリー(黒船)は来航しました。 この頃の日本は江戸幕府が治めていたのですが、突如現れたペリー(黒船)を前にして大混乱に陥ります。 当時の日本は第3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)が始めた 《鎖国体制》をとっていて200年あまりの間、 中国、 朝鮮、 オランダ以外の国とは国交をしていませんでした。 そんなときにペリーが乗船する黒船が来航し、日本は開国か鎖国かの2択を迫られました。 先ほどペリー(黒船)が来航して日本の行政を司る江戸幕府は大混乱したと言いましたが、実は江戸幕府将軍を始め、老中や閣僚たちはペリー(黒船)が来航することを実は1年前から知っていました。 なぜ知っていたのかと言うと、オランダが日本へ世界情勢を伝えるために毎年レポートを提出したり、外交官同士で情報交換をしていたからです。 日本の首脳たちは1年前からオランダによって 「アメリカからペリー(黒船)が日本へ渡航するような動きを見せています」というレポートを受け取っていたのにも関わらず、実際に来航するまでなんの対策もしていなかったのです。 ペリー(黒船)が来航したときの日本の反応 ペリー(黒船)が来航する以前から日本には 『外国船打払令』という法律がありました。 外国船打払令とは 『中国、朝鮮、オランダ以外の外国の船が日本の海域にやってきたら躊躇なく大砲にて砲撃すべし』 という法律です。 そのためペリー(黒船)が来航してきた際、日本に外国の船を近づけまいと幕府は砲撃命令をします。 日本軍は大砲にてペリーが乗船する黒船に対して躊躇なく砲弾を撃って撃って撃ちまくります。 ところが日本軍の放った砲弾は黒船に届くことはありませんでした。 ペリーは黒船を砲撃が当たらない安全な場所で停止させていたのです。 このとき江戸幕府は庶民に対して黒船を見に来ることを禁じていたのですが、ダメと言われれば言われるほど見たくなるのが人間の性。 日本の庶民たちは黒船をひと目見ようと野次馬と化して浦賀に集結していました。 そして、ペリーが乗船する黒船を見た日本の人々はその巨艦にただただ驚くばかりでした。 当時日本が所有していた船で最も巨大だと言われていたのが千石の米を積載できるという 「千石船」という船でした。 「千石船」は全長25メートル、排水量(重さ)200トン、乗員数は100人。 対してペリーの乗る 「黒船」は全長78メートル、排水量(重さ)3824トン、乗員数300人。 長さは3倍、重さは20倍、乗員数は3倍とその差は歴然です。 さらに黒船の動力は 蒸気機関、千石船は帆(風力)もしくは人力という具合だったので驚くのも無理はありません。 当時の新聞ともいうべき瓦版には 「黒船、龍が大海を這うが如し」という見出しでペリー(黒船)来航の号外を発行しました。 このとき日本のトップである江戸幕府将軍は12代将軍の 徳川家慶(とくがわいえよし)です。 将軍である家慶は各藩への要請や幕臣への指示などで大忙しかと思いきや、家慶はペリー(黒船)来航の一件を完全に人任せにしたのでした。 このときペリー(黒船)対策という重要な任に当たったのが大老の 井伊直弼(いいなおすけ)と老中首座の 阿部正弘(あべまさひろ)でした。 日本側の初期の対応 阿部正弘 当時の日本のトップだった将軍がペリー(黒船)来航に対して何にも考えていなかったので、矢面に立たされたのは老中首座の 阿部正弘(あべまさひろ)です。 阿部正弘はペリー(黒船)来航の報を聞きつけ、直ちに江戸城へ参内し閣僚の位置づけにある大名を緊急招集。 ペリー(来航)に対する会議を行いました。 しかし、そうこうしているうちにペリーはアメリカ大統領からの国書(手紙)を幕府に送り「一年後再び来航する」と言い残して一時帰国してしまいます。 従来幕府は諸藩の意見をどうでもよいと軽視していましたが、この時ばかりは諸藩に意見を求めざるを得ない状況でした。 諸藩からの意見を集計すると• 鎖国すべしという回答が約48%• 開国やむなしが約26%• 開国するべきが約4%• 徹底抗戦が約15%• 無回答が約7% でした。 鎖国派の意見が大半を占めていたのですが、開国するべきという少数意見を無視するわけにもいきませんでした。 なぜならば開国するべきと主張した筆頭が彦根藩主の 井伊直弼(いいなおすけ)だったからです。 井伊直弼 井伊直弼は江戸幕府の旗本の中で1位2位を争う名門中の名門。 先祖は徳川家康(とくがわいえやす)に仕え「赤鬼」の異名をとった井伊直政(いいなおまさ)です。 井伊直弼は当時老中の阿部正弘よりも上位にあたる大老というに就いていました。 大老とは江戸幕府において将軍が幼い場合や国難にあった際に設けられる臨時の役職です。 老中の阿部正弘よりも偉い井伊直弼が「開国するべきだ」と主張したので阿部正弘の悩みはさらに深くなっていきます。 2度目のペリー(黒船)来航 に備えて日本側が行った対応 2度目のペリー(黒船)来航に備えるべく、日本側はアメリカと万が一戦争になったときのための軍備を整えようとしました。 軍艦の購入 まず行ったのが 軍艦の購入です。 当時日本には軍艦と呼べるような船はありませんでした。 ペリーが乗船する黒船は船体が金属でできており動力は蒸気機関を使用しているため帆船よりも断然機敏な動きをします。 さらに船体の片側には9門の大砲が取りつけられていました。 日本はそんな黒船と戦うための軍艦をオランダから購入したのでした。 大砲を設置する台場の建設 次に行ったのが対艦用の大砲を設置するための台場の建設です。 東京湾の沿岸を埋め立てて11基の台場を建設しました。 埋め立てられたその地は後に『お台場』と呼ばれることとなります。 作戦会議 さらに江戸幕府の閣僚と諸大名は江戸城に連日出勤して対応策や作戦などを会議します。 その中のひとつに「スイカ売り作戦」というものがあります。 黒船の戦力は圧倒的なので奇襲戦法をとるしかないというものです。 その詳細は「武士がスイカ売りに扮して黒船に乗船し、お金を受け取るフリをしてペリーに斬りかかる」というものでした。 しかし、この作戦は日本の船が小さすぎて黒船にスイカを搬入できないだろうという意見と、そもそも支払いをするのはペリーではないのでは?という意見があったため、却下されました。 2度目のペリー(黒船)来航時の日本の反応 ペリーは「一年後再び来航する」と言っていたのにも関わらず、1度目の来航からわずか7カ月後に再来航しました。 またもや突如現れた黒船を見て日本の役人と庶民たちは驚愕します。 日本の庶民は見物に来ることを禁止されていたのですが、再び制御不能な野次馬たちが集結しました。 そこでは望遠鏡を貸し出すビジネスや黒船見物のための遊覧船を運行するビジネスが行われ、日本の庶民の強さが現れています。 一方日本の首脳部である江戸幕府では1年かかる計画で軍備を進めていたので対応が追いついていませんでした。 阿部正弘は再び閣僚と大名を江戸城に緊急招集して対応策を話し合いました。 話し合いの結果、抗戦することは諦めて阿部正弘を代表とする閣僚がペリーと交渉することに決まりました。 ペリーはアメリカ人なので英語を話します。 当時日本側にも英語と日本語を通訳できる者がいたのですが、江戸幕府では洗脳を防ぐために通訳を派遣することを控えました。 そのため、ペリーと日本の役人たちが交渉する場ではペリー側からの話を英語からオランダ語に翻訳し、オランダ語から中国語に翻訳、さらに中国語から日本語に翻訳して日本の役人に伝えられ、日本側ではその逆の手順を踏んで交渉が行われました。 日本もアメリカに負けていられない 1度目は強気で傲慢な姿勢で日本の役人と対峙したペリーでしたが、2度目は物腰やわらかく接待をします。 接待の場ではアメリカの技術が集約されたさまざまな工業製品を見せつけて日本とアメリカの間に文明の格差が大きいことを日本の役人に見せつけます。 これには日本側もアメリカと戦争することは諦めるべきだということで、どんどん開国する方向へ考えを転換していきます。 御礼の文化が根強い日本では接待を受けたのだから御礼をするべきだということで、黒船に日本産のお米を200俵(12,000Kg)贈りました。 そして黒船にお米を搬入するときにわざわざ力士を100人集めて運ばせました。 ペリーをはじめとするアメリカ人は日本の力士を見て顎が外れるほど驚きます。 アメリカの軍人が2人かがりでも持ち上げられない米俵を力士は片手に1俵ずつ持ってやすやすと運びます。 さらに余裕のある力士は米俵の上にアメリカ軍人を乗せて担いだり、ベルトを掴んでアメリカ軍人を宙吊りにしたりと個々の力の強さを見せつけます。 「なめてんのか!?」と怒られそうですが、アメリカ軍人は気さくで「すごいすごい」と大喜び。 無邪気にも身体の大きな力士を珍しそうに観察して腕や太ももを触ったり、おなかをなでなでして力士に興味を示しました。 日本とアメリカはペリーと阿部正弘の署名で条約を締結 2度目のペリー(黒船)来航では日本とアメリカの間で 日米和親条約が締結されます。 条約にはペリーと阿部正弘が署名をして調印しました。 この条約が調印されたとき日本ではまだ鎖国を続けるか開国をするかの結論は出ていませんでした。 大老の井伊直弼は老中の阿部正弘に命じて秘密裏に条約の締結を強行することを指示していたのです。 まとめ ペリー(黒船)が初めて来航したとき日本人の反応としては、本当にただただ驚くばかりでした。 そして、ペリー(黒船)への対応としては、 1度目の来航では、当初は徹底抗戦の構えをとったものの、結局は諸藩の大名に意見を求めました。 そして、2度目の来航(抗戦)に備えて軍艦の購入したり、大砲を設置するお台場を建設したりしました。 2度目の来航時には、庶民たちが黒船ビジネスを始めたりして日本の庶民の強さが表れています。 一方の日本政府(江戸幕府)は抗戦の準備が整っていなかったこともあり、抗戦を諦めて交渉を行いました。 その交渉のなかでアメリカとの文明の差を実感した日本は、結局 『日米和親条約』を締結することになったのです。 もし2度目の来航時にペリーが傲慢な強硬姿勢をとってきていたら、そして日本が抗戦という手段をとっていたとしたら、アメリカに徹底的に攻撃され、植民地にされていた可能性もあります。 当時の日本の軍事力では到底敵わなかったでしょう。 そうなると現代の日本の立ち位置は違った形になっていたかもしれません。 このとき上手く立ち回った阿部正弘と井伊直弼は本当に良い仕事をしたのだと思います。

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