ルイ 16 世。 ルイ14世 (フランス王)

ルイ16世

ルイ 16 世

誕生 ルイ16世は1754年8月23日、フランス王太子ルイ・フェルディナンと母マリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男として誕生しました。 この時ベリー公となります。 ベリー公(ルイ16世)の父フェルディナンは、国王であるより先に亡くなります。 そして次男は1歳で亡くなり、王位を継ぐだろうと思われていた長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ(ブルゴーニュ公)も、結核により父より早くこの世を去ります。 こうしての孫のベリー公がドーファン(王太子)となったのでした。 父や祖父のように偉大な師には恵まれませんでしたが、放蕩な生活を送る15世を良く思わない側近らによって、ルイ16世は歴史・地理、英語やラテン語などを学んだとされます。 マリー・アントワネットとの結婚 1770年5月16日、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家の政略結婚として、王太子ルイとと結婚します。 この時ルイは15歳、マリーは14歳でした。 約3年程婚約から結婚まで時間があいているのは、ルイの父フェルディナンが結婚に反対していたことや、ルイの兄ブルゴーニュ公が死去していたことが挙げられます。 (本当は兄のブルゴーニュ公の結婚相手として考えられていました。 )反対していた父も母も亡くなってしまったので、この縁談は進められたのです。 王位継承、フランス国王へ 祖父であるが、天然痘のため1774年5月9日に64歳で崩御します。 これにより翌日5月10日、ルイ・オーギュスト王太子は即位しルイ16世となりました。 彼が19歳の時でした。 そして、翌年にランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行っています。 この新しい王を補助したのは、父フェルディナンの遺言で推薦されていたモールパ伯でした。 そして彼の指示によって財務総監にテュルゴーが採用されます。 しかし、テュルゴーの行った政策は失敗に終わります。 穀物取引の完全自由化(自由な取引によって適正な価格を維持する目的)の王令でしたが逆効果で、穀物の価格が高騰します。 民衆は怒り、各地で暴動が起こりました。 (小麦粉戦争とも言います) これによってわずか2年でテュルゴーは罷免。 ルイ16世の政策は、スタートから暗雲が立ちこめていたのです。 度重なる戦争での疲弊 、と戦争や浪費で赤字が続いていた国家財政でしたが、ルイ16世はアメリカ独立戦争に参加します。 これには宿敵イギリスへの雪辱を果たす目的もあったでしょうが、結果的にフランスはわずかな海外領土しか得られず、財政はますます苦しくなっていきました。 王妃マリー・アントワネット またルイ16世の王妃、も浪費のくせがあり、衣装や宝石、賭博に派手にお金を使っていました。 彼女一人の浪費で国が傾くことはなかったでしょうが、それでも赤字財政の中での王妃の行動は目立つものがありました。 『バスティーユ襲撃』 出典:Wikipedia 革命の引き金は先に行われた「三部会」でした。 先代、先先代の王たちの赤字、アメリカ独立戦争での赤字が積み重なり、いよいよ苦しくなってきたフランスは1789年に三つの身分(聖職者、貴族、平民)からなる「三部会」を行なっていましたが、これが一般市民の政治介入へのきっかけになったのです。 ルイ16世や貴族は武力で平民議会を弾圧しようとしましたが、当然平民の不満が爆発します。 これが、バスティーユ牢獄襲撃に繋がったのです。 その後、ヴェルサイユ行進によって国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ身柄を移されました。 オーストリアへの逃亡も図りましたが、これも失敗に終わります。 結局信頼を失ったルイ16世は、さらにタンプル塔に家族共々幽閉されてしまったのです。 国王の処刑 幽閉されたルイ16世でしたが、幸いにもタンプル塔には沢山の書物があり、読書を楽しむことができました。 家族と暮らすささやかな生活です。 息子のシャルルに言語を教えていたとも言われています。 しかし、そんな生活に終止符が打たれました。 1793年1月、ルイ16世の処刑が国民公会で決定したのです。 そして1793年1月21日午前10時22分、パリの処刑人シャルル・アンリ・サンソン(ムシュー・ド・パリ)によりルイ16世は断頭台の露と消えました。 皮肉にも、このギロチンの精度を高めるために刃を斜めのデザインにするように助言したのも、ルイ16世でした。

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ルイ16世 (フランス王)

ルイ 16 世

フランス・の国王(在位1774~92年)。 の渦中の1793年に処刑された。 即位当時フランスはブルボン朝最盛期のから(16世の祖父)と続いた17世紀末から18世紀のヨーロッパでの領土拡張戦争、新大陸やインドでのイギリスとのなどで深刻な財政難に見舞われていた。 ルイ16世は、20歳で即位すると、など有能な人物を採用してその財政再建に当たらせた。 彼自身はもっぱら狩猟や宮中の舞踏会に興じて政治を省みなかったとも言われているが、最近の評価では、革命の勃発を未然に防止し、啓蒙専制君主の道を模索したが失敗した、ともされている。 1770年に結婚した、オーストリアのの王女も贅沢な生活を送り、そのため財政が苦しくなって革命の一因となったとまで言われることがある。 しかし、国王の失政と王妃の贅沢だけで革命が起こったと言うことではないことは言うまでもない。 絶対王政を行き詰まらせた財政難はイギリスとの植民地戦争の時代から始まっており、さらにこの時期にが起きると、1778年にに踏み切ってアメリカを支持しイギリスと戦ったことも、財政問題を深刻にした理由である。 フランス革命の勃発 タンプル塔へ下着のまま連行されるルイ16世 芝生瑞和編『図説フランス革命』河出書房新社 p. 103 、財政難を解決するため貴族に対する新たな課税を企て、したところ、第三身分が一部の貴族と協力しての開催を宣言した。 国王はそれを認めず武力弾圧しようとしたところから、パリ市民が蜂起してが勃発した。 10月にはパリの女性がを行って、国王一家はパリに連れ戻され、に入った。 しかし、21日、ルイ16世はマリ=アントワネットと国外逃亡を企て()て失敗し、全く国民の信頼を失って王権は停止された。 その後フィヤン派のバルナーヴやラ=ファイエットは国王の存在の上で議会制を敷く立憲君主政の樹立をめざして、1791年の憲法を制定した。 ルイ16世はそれを容認しながら、王妃マリ=アントワネットを通じてなおもオーストリアなどの外敵と共謀して革命の転覆を狙った。 でが主張してが可決されると、ルイ16世はその戦争でフランスが負けることを期待して開戦を承認した。 退位 外国の革命干渉軍の脅威が迫るなか、パリのが決起してテュイルリー宮殿を襲撃するという1792年によって、ルイ16世とその家族はタンプル塔に幽閉されることとなった。 革命がさらに進展し、男子普通選挙で選出されたは、、を決議、ルイ16世が退位し翌22日から「フランス共和国第1年」と称することになった。 ブルボン王朝はここで一旦、中断されることとなり、1814年にとなる。 1792年12月11日から始まったの法廷での前国王ルイ=カペー(は退位後はこう呼ばれた)裁判は、ジロンド派と山岳派の間ではげしく議論された。 ジロンド派は処刑による外国の感情悪化を恐れ、まだ外交上の手札とできると考えて処刑に反対した。 それに対して山岳派は、共和政・人民主権の立場から国王処刑を主張した。 弱冠25歳の山岳派サン=ジュストは「人は罪なきものとして王たりえない」つまり、王であること自体が悪であると主張し、「この男は、王として統治すべきか、それとも死なねばならない。 」と断じた。 はルイは裁判の対象にさえならない、共和政の樹立されたことは王の存在は許されないとして「祖国は生存すべきものだから、ルイは死すべきである。 」と述べた。 Episode 宮殿の秘密の戸棚 国民公会で前国王ルイ=カペー裁判をが開始される前の1792年11月20日、テュイルリー宮殿のなかの秘密の戸棚が発見され、国王と外敵との通謀を示す動かせない証拠が出てきた。 これは秘密の戸棚をつくった錠前師ガマンが、王妃マリ=アントワネットからブドウ酒とビスケットをもてなされたところ、それを食べて猛烈な腹痛におそわれたことの結果である。 彼はてっきり毒殺の陰謀にかけられたと思いこみ、約1年たって内務大臣ロランに通報したのである。 <河野健二『フランス革命小史』1965 岩波新書 p. 135-136> 国王裁判の評決 1793年1月14日、各議員が登壇して意見を述べるという形式で最終決定が行われた。 ルイの有罪は全員一致で認められ、人民への上訴は否決された。 16日夜、その刑罰を決める投票が始まり、24時間続いた。 721人の議員のうち、死刑賛成387、反対334となった。 賛成者の中の26名は、執行猶予について検討すべきと言う条件を付けた。 この26票を反対側に数えると、361対360の1票差となる。 そこで執行猶予についての投票が18日に行われた結果、380対310で否決され、死刑は確定した。 死刑の執行 、前国王ルイ=カペー(ルイ16世)はにかけられた。 その前夜死刑に賛成したルペルチエが暗殺され、ロベスピエールはこの日の午後の国民公会でルペルチエの賞賛演説を行った。 28日、ヴェストファーレンにいた王弟プロヴァンス伯(後の)は摂政を名乗り、ルイ16世の王子(パリに幽閉されている)を国王ルイ17世とすると宣言した。 王妃は、同年10月、やはり断頭台に送られて死んだ。 イギリスの首相は革命が広がることを危惧し、ルイ16世処刑を口実にを各国に呼びかけた。

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フランス革命で断頭台に消えた「ルイ16世」フランス最後の絶対君主を歴女が解説

ルイ 16 世

処刑された人たちの最期の言葉集 父よ、私の霊をあなたの手にまかせます イエス・キリスト 紀元前4年頃~紀元後28年頃 世界でもっとも有名な「 処刑された人物」だと思います。 ゴルゴダの丘で十字架に磔にされ処刑、新約聖書では3日後復活したとされています。 イエスの最期の言葉として「 エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。 )」が非常に有名ですがこれは最期の言葉のひとつです。 イエスは十字架に磔になった際に 7つの言葉を残しています。 キリスト教の解釈ではイエスの死は「 人類の原罪の全て背負って死んだ」とされています。 つまり人類の贖罪を成し遂げた人物とされています。 ただし、各宗派によってイエスの死の解釈の違いや歴史的人物としての死はどのようなものであったのかは、未だに研究対象として議論されているようです。 ロベスピエール派によって処刑されます。 自由、平等、友愛を掲げたフランス革命においてロベスピエール派は 恐怖政治を行い敵対するあらゆる勢力をギロチン台に送りました。 ジロンド派も処刑対象であり、彼女も処刑対象となります。 処刑前に叫んだとされる言葉が「 自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」。 数々の人間を処刑したマクシミリアン・ロベスピエールも1794年7月28日に犠牲者たちと同じギロチンによってこの世を去ります。 この最期の言葉はフランス革命における象徴的な言葉のひとつだと思います。 関連記事 でも靴が汚れなくてよかった マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 1755年11月2日~1793年10月16日 フランス国王ルイ16世の王妃でフランス革命中に処刑されています。 夫であるルイ16世も同じく処刑されています。 ルイ16世の処刑後に革命裁判所は反革命の「 最初の生贄」としてマリー・アントワネットの処刑を行うとしたそうです。 そのため、「 母親に性的行為を強要された」と息子のルイ・シャルルに嘘の証言を強要。 無理やり処刑する罪状をでっち上げ、死刑判決を下します。 最期の言葉はギロチンにかけられる前に死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの靴を踏んでしまった際に「 ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった」と言ったと言われています。 流石は貴婦人と言うべきでしょうか。 わが総統よ… エルンスト・ユリウス・レーム 1887年11月28日~1934年7月1日 ナチ党の突撃隊幕僚長。 ヒトラーと対立をして 長いナイフの夜事件の際に粛清されます。 そんなレームの最後の言葉は「わが総統よ…」です。 処刑を担当したアイケ・リッペルトはその言葉を聞くと「 貴方はもっと早くそれを言うべきだった…」と返したと言われています。 レームはヒトラーを「Du(親しい人にだけ使う二人称)」を呼ぶことが許された数少ない人物だったそうです。 また軍事的なキャリアはレームの方が上で、年齢も上。 レームはヒトラーを「 部下に近い友人」のように考えていた可能性があります。 そのため「わが総統よ…」と今更自分の立場を認識することがアイケに言わせれば「 遅かった」のだと思います。 この処刑によってナチス内部における突撃隊(SA)の地位は下がり、下部組織と見られていた 親衛隊 SS の勢力が拡大していくことになります。 関連記事 私に残された最後の望みは、自分の首が切り落とされ、血飛沫を噴き出す音をこの耳で聴くことです ペーター・キュルテン 1883年5月26日~1932年7月2日 デュッセルドルフの吸血鬼の異名を持つドイツの連続殺人鬼。 近代シリアルキラーの原点のひとつとも言われているそうです。 自称では最初の殺人は 9歳の頃に友人を溺死させたこと。 かなり荒れた家庭環境の中で育ったようで、成長するにつれて窃盗・放火・動物虐待などを行うようになります。 約80件の犯罪を自白していますが、9件の殺人と7件の殺人未遂の罪で起訴。 裁判の結果、ギロチンによる死刑が求刑されます。 その際に言った最期の言葉が「 私に残された最後の望みは、自分の首が切り落とされ、血飛沫を噴き出す音をこの耳で聴くことです」だと言われています。 筋金入りですね。

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