蜻蛉日記 口語訳。 更級日記『門出(あこがれ)』現代語訳

蜻蛉日記 口語訳: 蜻蛉日記 その他(よくある質問集)

蜻蛉日記 口語訳

彼女はけっして生まれつき身分が高かったわけではありませんが、 持ち前の美しさと、和歌の高い才能によって「藤原兼家」にみそめられ、一気に高貴な身分となりました。 「藤原兼家」は藤原家の繁栄に大きく貢献した人物なので、学校の授業で習ったことを覚えている方も多いかもしれませんね。 ただし、 一見華やかにみえる作者も、実際の生活では、夫の浮気に嫉するなどいつも不満を抱えていたようです。 「夫が家に来たけれども、嫉妬心からしばらく無視していると別の女性のところに行ってしまった」などはなんとも生々しいですね(笑) その後に作者が送った和歌には「悲しい」という言葉とともに、枯れかけた菊を添えています。 「蜻蛉日記」は物語の内容自体も高く評価されていますが、 素晴らしい和歌が多数収録されていることでも当時から絶賛されていました。 現代まで残っている「百人一首」でも、今回のあらすじでご紹介した なげきつつ ひとり寝(ぬ)る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る が収録されているほどです。 ちなみに、「蜻蛉日記」以降、女性が描く日記文学は広く人気が高まっていって、 「右大将道綱母」の姪にあたる「菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)」は「 更級日記」を書き記しています。 「蜻蛉日記」は現代語訳なら非常に読みやすいのですが、かなり長い文章ではあるので、 興味のある方はマンガでざっくりと読んでしまった方がいいかもしれません。 漫画であれば、現代の女性にも非常におススメできます。 以上、『蜻蛉日記の【あらすじ・現代語訳・簡単な要約・読書感想文・解説】』でした! 最後までお読みいただきありがとうございました はてなブックマークやSNSシェアなどしていただけると涙がちょちょ切れます。。。

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蜻蛉日記の口語訳を教えてください。課題で蜻蛉日記の訳が出ているのですが途...

蜻蛉日記 口語訳

夢よりもはかなき世の中をなげきつつ明かし暮らすほどに、はかなくて四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。 端の方をながむれば、築地の上の草の青やかなるも、人は殊に目とどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひのすれば、「誰にか」と思ふほどに、さし出でたるを見れば、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。 あはれにものを思ふほどに来たれば、「などか久しう見えざりつる。 『遠ざかる昔のなごりには』と思ふを」などいはすれば、「『そのこととさぶらはではなれなれしきやうにや』とつつましうさぶらふうちに日ごろ山寺にまかりありき侍るになむ、いとたよりなくつれづれに侍りしかば、御かはりに見まゐらせむとて、帥の宮になむ、まゐりて侍りし」と語れば、「いとよきことにこそあなれ。 その宮はいとけけしうおはしますなるは。 昔のやうにはえしもあらじ」などいへば、「しかおはしませど、いと気近うおはしまして『まゐるや』ととはせ給ふ。 『まゐり侍り』と申し侍りつれば、『これまゐらせよ。 いかが見給ふ』」とて、橘の花をとりいでたれば、「昔の人の」といはれて、見る。 「まゐりなむ。 いかが聞こえさせむ」とていへば、ことばに聞こえさせむもかたはらいたうて、「何かは。 あだあだしくも聞えさせたまはぬを。 はかなき事も」と思ひて、 かほる香によそふるよりはほとどぎす聞かばや同じ声やしたると 夢よりもはかない世の中を嘆き嘆き時を過ごすうちに、あっけなくも四月十日過ぎにもなってしまったので、緑が濃くなり、木陰もだんだん暗くなっていく。 庭の端の方に目をやると、築地の上の草が青々としているのも、他の人は特に目を留めないけれど、私はしみじみと見ているときに、すぐそばの透垣のところに人の気配がしたので、「誰だろうか」と思っていると、出てきたのを見たところ、亡き宮(為尊親王)にお仕えしていた小舎人童なのだった。 しみじみと物思いにふけっていたところにやって来たので、「どうして大変長い間、姿を見せなかったの。 『遠ざかっていく昔の名残にはあなたを見よう』と思っているのに」などと、取次の者に言わせたところ、「『特にそのことという用事もございませんでは、馴れ馴れしい様子ではないでしょうか』と遠慮されていますうちに、ここ最近は山寺あたりを訪ねていましたところ、本当に心細く所在のない感じがしたので、亡き為尊親王のかわりに拝見しようということで、敦道親王のもとに参上しておりました」と語るので、「実に良いことじゃないの。 その宮は大変お上品でいらっしゃるようねぇ。 昔のようにはとてもいかないでしょう」などと私が言うと、「そうではございますが、とても親しみやすくいらっしゃって、『和泉式部のもとに参上するのかい』とお尋ねになるのです。 『参上しております』と申し上げましたところ、『これをお持ちしなさい。 和泉式部はどうご覧になるだろうか』」と言って、小舎人童が橘の花を取り出したので、思わず「昔の人の」というのが口をついて出て、その橘を見る。 「そろそろ敦道親王のところに参りましょう。 どのように申し上げましょうか」と言うので、普通の言葉で申し上げるようなこともきまりが悪くて、「ええい。 敦道親王は浮ついた評判にもなっていらっしゃらないのだから。 ちょっとした和歌でも」と思って、 薫る香にかこつけるよりも、ほととぎすさん、聞きたいわ、あなたが亡き宮と同じ声をしているかと 宮、例の、忍びておはしましたり。 女「さしもやは」と思ふうちに、日ごろのおこなひに苦しくてうちまどろみたるほどに、かどたたくを聞きとがむる人もなし。 聞こし召すことどもあれば、「人のあるにや」と思し召して、やをら帰らせ給ひぬ。 つとめて、 「 あけざりしまきの戸ぐちに たちながらつらき心のためしとぞみし 憂きわすれにやと思ふにもあはれになむ」 とあり。 「昨夜おはしけるなめり。 心なくも寝入りにけるかな」と思ひて、 「 いかにかはまきの板戸もさしながらつらき心のありなしはみむ をしはからせ給ふべかめるこそ。 見せたしは」 とあり。 こよひもおはしまさまほしけれど、かかる御ありきを人々も制しきこゆるを、「とかく宮などの聞こし召さむこともかなしきやうなり」と思しつつむほどに、いとはるかなり。 敦道親王は、いつもの通り、人目を忍んでいらっしゃった。 女は「そんなこと(お詠みになった通り今夜いらっしゃるようなこと)があるかしら。 どうせないでしょう」と思っているうちに、ここ数日のおつとめに疲れて少しうとうとしているときだったので、親王のお供の者が門を叩くのを、それと気付く人もいなかった。 親王はかねてからお聞きになっていること(和泉式部の悪評)もあるので、「他の男などがいるのだろうか」とお思いになって、そっとお帰りになった。 その翌朝、 「 あなたが開けなかった真木の戸口に立ちながら、薄情な心とはこういうことかと思い知った。 『辛いことに、あなたは私のことを忘れてしまったことであろうか』と思うにつけても、しみじみ辛いことで」 と、宮からの手紙に書いてある。 「昨夜いらっしゃったようね。 気配りもなく寝入ってしまっていたことよ」と思って、 「 どのようにして、真木の戸口を閉めたままで薄情な心の有無を見ることができるでしょうか、いえ、見ることなどできません。 勝手に推し量っていらっしゃるようで。 私の心のありようを直接お見せしたいものです」 と、女からの手紙にある。 今夜もおでかけしたいと思うけれど、このようなお出かけを人々もお止め申し上げるので、「何かと皇太子である兄などのお耳に入るようなことがあったら、悲しいことだ」とご遠慮されているうちに、時間が経ってしまう。 おはしまさむと思して、御火とりなど召すほどに、侍従の乳母まうのぼりて、「出でさせおはしますはいづちぞ。 この事いみじう人々申すなるは。 なにのやむごとなき人にもあらず。 召しつかはせおはしまさむと思し召さむかぎりは、召してこそつかはせおはしまさめ。 かるがるしき御ありきは、いと見苦しき事ぞ。 ただにも人々あまたかよふ所なり。 美なきこともいでまうできなむ。 すべてすべてよからぬことは、この右近の尉なにがしが始むるなり。 故宮もこれこそはゐてたてまつりしか。 よる夜中とありかせ給ひて、よき事やはある。 かかる御ありきの御ともにあるかむ人々は大殿に申さむ。 世の中はけふあすとも知らず、かはりぬべかめり。 殿の思し掟てし事どもあるものを。 世のありさま御覧じ果つるまでは、かかる御ありきなくてこそおはせめ」と申し給ふ。 「いづちかいかむ。 つれづれなれば、はかなきすさび事を。 ことごとしういふべきにもあらず。 」 かねてのたまはせむには「あやしくすげなき物にこそあれ、さるはいとくちをしからぬ物にこそあめれ。 よびてやおきたらまし」と思せど、「まして聞きにくき事ぞあらむ」など、思し乱るるほどに、おぼつかなくなりぬ。 敦道親王が女(和泉式部)のもとにいらっしゃろうとお思いになり、御火取などをお取り寄せになっているときに、侍従の乳母が参上して、「外出なさるのはどちらへ。 このことをひどく人々が噂をし申し上げているようですよ。 その女はこれといって高貴な人ではありません。 召し使おうとお思いになるような限りは、召してお使いになるのが良いでしょう。 軽々しいお出かけは、大変見苦しいことです。 ただでさえ、その女は男性がたくさん通う所です。 見苦しいことも出てくるに違いありません。 全く何もかも良くないことは、この右近の尉なんとかが始めるのです。 亡き宮もこの者こそがお連れ申し上げたの。 夜更けにお出かけなさって、良いことがあるでしょうか、いやございません。 このようなお出かけのお伴として歩くような人々は大殿に申し上げましょうね。 世の中は今日明日とも知らず、変わってしまうものであるようです。 殿がお決めになったことなどもありますのに。 世の中の様子をすっかり見届けなさるまでは、このようなお出かけはなさらないのが良いでしょう」と申し上げなさる。 親王は「どこへ行くでしょうか。 手持ち無沙汰ですので、ちょっとした慰みを。 おおげさに言ってはいけないよ」と答える。 親王が前々からおっしゃっているようなことによると、「身分も低くつれない女ではあるけれど、一方ではそんなにどつまらなくはない女であるようだ。 そばに呼んで置いておこうかどうしようか」とお思いになっているのだけど、「呼び寄せたら、さらに聞き苦しいことがあるだろうか」とお悩みになっているうちに、女への訪れがなくなってしまった。

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「土佐日記:門出(馬のはなむけ)」現代語訳(口語訳)

蜻蛉日記 口語訳

紀貫之作。 承平4年(934)年12月21日に、国守として赴任した土佐を出発し、翌年2月16日に、京の自宅に帰るまでの出来事を、和歌を交えながら記した。 男性である紀貫之が、作者を女性に仮託して、当時、女文字とされた仮名文字を使用したことに特色がある。 紀貫之 … 868頃〜945頃。 平安前期の貴族、政治家、歌人。 三十六歌仙の一。 大内記、土佐守、木工権頭などを歴任。 紀友則らとともに古今和歌集を撰集し、仮名序も記す。 歌人としての名声とは裏腹に、60代で土佐守となるなど昇進は遅く、政界では不遇であった。 著『土佐日記』、『貫之集』、『大堰川行幸和歌序』、『新撰和歌集』。 『人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける』は小倉百人一首の35番。 土佐の国府を出発。 12月25日 『』 : 新任の国守から供応を受ける。 12月27日 『』 : 土佐の大津から浦戸、そして大湊へ。 承平5年 935 1月1日 『』 : 大湊で迎える正月。 1月7日 『』 : 悪天候による大湊での足止め。 1月7日 続 『』 : 歌の下手な来客と上手な子供。 1月8日 『』 : 大湊から奈半へ出港。 1月9日 続 『』 : 名勝、宇多の松原と夜間の航行の恐怖。 1月10日 『』 : 奈半から室津へ。 1月13日 続 『』 : 天候不順で室津に停泊。 1月17日 『』 : 出港するも、天候不良により、再度、室津に寄港。 1月20日 『』 : 月を見て、阿倍仲麻呂を想う。 1月21日 『』 : 室津を出港。 1月22日 『』 : 海賊対策としての神頼み。 1月27日 『』 : 鳴門の土佐泊へ。 1月30日 『』 : 四国を去り、和泉の灘へ。 2月4日 『』 : 天気予報を外す船頭。 2月5日 『』 : 和泉の灘から住吉へ。 2月5日 続 『』 : 遭難の回避を住吉の明神に祈る。 2月6日 『』 : 難波へ。 2月7日 『』 : 淀川を遡上。 2月9日 続 『』 : 渚の院を見て、在原業平の歌を思い出す。 2月11日 『』 : 山崎に至る。 2月16日 『』 : 桂川を渡る。 2月16日 『』 : 帰京。 そして、土佐で亡くした娘への思い。 (注) 土佐日記の各章段は当サイトにおける便宜上のものです。

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