マヤ 暦 滅亡。 3つの都市伝説から導かれる『新型コロナ世界滅亡説』がいよいよ現実味を帯びてきた

マヤ暦は「2019年12月21日に人類滅亡」だったことが確定! 特大ポールシフトで人類滅亡、地球崩壊へ!

マヤ 暦 滅亡

マヤ文明の領域 三つの地域 [ ] マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。 マヤ低地北部は現在の北部に当たり、乾燥したであり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。 マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、や、などの都市が繁栄した。 なかでももっとも乾燥している北西部においてはがによって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。 現在の北部からグアテマラ北部の、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。 気候としてはに属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。 交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。 この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。 現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、西部、西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。 マヤ文明においてもっとも重要な資材であるはマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。 低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。 のように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い。 歴史 [ ] マヤ文明の時代区分 時代 下位区分 年 古期 8000—2000 BC 先古典期 先古典期前期 2000—1000 BC 先古典期中期 前期 1000—600 BC 後期 600—350 BC 先古典期後期 前期 350—1 BC 後期 1 BC — AD 159 終末期 AD 159—250 古典期 古典期前期 AD 250—550 古典期後期 AD 550—830 古典期終末期 AD 830—950 後古典期 後古典期前期 AD 950—1200 後古典期後期 AD 1200—1539 植民地期 AD 1511—1697 先古典期前期(紀元前2000年 - 紀元前1000年) [ ] 詳細は「 ()」を参照 100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、ほかにも多くの都市が衰退していった。 こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、次の古典期における大国として勢力を拡大していった。 古典期前期(A. 250年 - 550年) [ ] 開花期の(A. 250年 - 550年)には、などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。 「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。 各都市では、巨大な階段式基壇を伴うが築かれ、王朝の歴史を表す stelae が盛んに刻まれた。 ごろにはメキシコ中央高原のの影響がティカルやコパンなどマヤ低地南部のいくつかの都市に見られ、この時期にテオティワカンから一部勢力がマヤに影響力を行使したことがうかがえる。 ただしこうした影響は短期間にとどまり、やがて地元の文化と融合していった。 古典期後期(A. 550年 - 830年) [ ] 古典期後期(A. 550年-830年)には大都市のカラクムルやティカルのほかにも多くの小都市国家が発展した。 このころの大勢力としては、マヤ低地北西部のウシュマル、北東部の、マヤ低地南部では西から、、カラクムル、ティカル、、そして南東部に離れたところにあるコパンなどが挙げられる。 また、マヤ低地にはや、といった中小都市も多く存在し、興亡を繰り返していた。 はマヤ文化の絶頂期であるといえる。 マヤ文明の人口は最大10,000,000人の住民と推定されている。 この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。 また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、を材料としたがつくられた。 碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。 通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、いくつかの商業都市も生まれた。 古典期マヤ文明の衰退 [ ] 詳細は「 ()」を参照 9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。 原因は、• 遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)• 北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)• 農民反乱説• 内紛説• 疫病説• 気候変動説• 農業生産性低下説 など有力な説だけでも多数ある。 しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。 また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。 (ミルパ)農法や、を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と、少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。 一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」で Uxmal 、 Chichien Itza などに Puuc Style の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。 後古典期(A. 950年 - 1524年) [ ] 「 (、)」および「 (、)」も参照 にがアメリカ地域に到達したときは、いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。 がはじめてマヤに姿を現すのは、のの遠征によってである。 この時の遠征は失敗に終わったが、翌にはがに到達し、文明の高さに驚嘆している。 その後による本格的な侵略がはじまり、にはによってマヤ高地のが征服され、この地方はとしてスペインの支配下に入った。 ユカタン半島北部もまた、によってに侵略が開始されたが、各都市の強い抵抗にあって2度撤退し、にユカタン西岸に、に半島北部にの街を建設して足がかりとし、にこの地方を制圧した。 これらの活動によってマヤ文明の北部と南部はの支配下に入ったが、密林の広がるマヤ低地南部をはじめとする内陸部の征服は遅れ、この地域にはいまだマヤ文明の諸国が残存していた。 これら諸国はその後も150年以上独立を保っていたが、に最も遅くまで自立を保っていたペテン盆地のが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。 マヤ文明の標式遺跡 [ ] は、、低地に所在するティカルの北方の遺跡である。 下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。 ペテン盆地及びグアテマラ低地のマヤ系諸王国 宣教師らの記録から、16世紀には以下のようなマヤ系諸政体ないし王国があったと考えられている。 ユカタン半島 [ ]• アフ・カヌル)• (アフ・キン・チェル)• (カン・ペチュ)• (カネク)• (ケフ・ペチュ)• (チャカン)• (チャカン・プトゥム)• (チェレス)• (チキンチェル)• (コチュアフ)• (ココム)• (クプル)• (エカブ)• (ホカバ・ホムン)• (プトゥン)• (ソトゥタ)• (タセス)• (トゥトゥル・シウ)• (ワイミル) ペテン盆地 [ ]• (ケハチェ)• (コウォフ)• (ヤライン) 高地マヤ [ ]• (、) 文化 [ ] チチェン・イッツア遺跡から出土した石像。 トルテカの強い影響を受けている 政治 [ ] マヤ文明が政治的に統一されたことは歴史上一度もなく、各地に無数の小都市が分立する政治体制が作られていた。 ただし各都市間に上下がないわけではなく、有力都市が周辺の小都市を従属させて優越王となり、いくつかの大都市の勢力圏に文明圏全域が分割された時期と、小都市国家が並立する時期が存在した。 マヤの王はなかば超自然的な存在とされており、と同一視されていた。 トウモロコシが地面に植えられて再生するように、死んだ王も復活すると考えられた。 王位継承は厳密に父系により、長男に優先順位があった。 そうしないと王統が絶える場合にのみ女性が即位した。 ただし、古典期後期にはの「6の空」(ワク・チャニル・アハウ)女王やのカベル女王のように実質的な支配者として君臨した例が見られる。 マヤ文明においては各都市は頻繁にを行っており、これによって勢力圏は大きく変動した。 マヤの戦争においては敵の王や貴族などを生け捕りにすることが非常に重要であり、王が捕らえられた都市は威信を大きく落として衰退の道をたどるものが多かった。 捕らえられた王や貴族は公衆の前で侮辱され、虐待された後に首をはねられたり、生贄として殺害された。 しかし、生きのびて勝者の臣下となり、帰国して復位することもあった。 道具 [ ] マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、を持たず、が広く使用されていた。 や、などの使用は9世紀ごろから存在する が、もとしての利用に限られており、基本的には時代であったといえる。 にはが用いられ、材料としてはとが主なものであったが、もろいものの切れ味の鋭い黒曜石製の石器の方が価値が高かった。 しかし黒曜石はユカタン半島においては産出せず、文明圏南部のマヤ高地にのみ産出したため、重要な交易品の一つとなっており、現在のグアテマラ市に位置するやホンジュラス北部に位置するのように、黒曜石の交易を握ることで大都市に発展したところも存在した。 としてはも存在したが、なによりもが珍重された。 また、と呼ばれる鳥の尾羽も威信材として珍重された。 交通 [ ] マヤ文明にはやのような輸送用のが存在せず、物資の運搬は主に人力によった。 例外として河川流域においてはによる輸送が行われ、また後古典期に入ると海上輸送が成長してなどの海港都市も発達するようになったが、海や河川の存在しないマヤ低地の大部分においては最後まで輸送は人力を主としていた。 この輸送力不足を補うため、各都市の中心から周辺地域にはと呼ばれる、や小石によるが張り巡らされていた。 付きのが出土するなど車輪の原理は知られていたが、輸送などに実用化されることはなかった。 産業 [ ] 農業技術については、地域の特性に合わせた様々な耕作方法が利用された。 マヤ文明には他文明のようなが存在しなかったものの、小規模な河川が流れる地域においてはその水を利用した農耕がおこなわれた。 マヤ低地には河川がほとんど存在しないものの、地盤が石灰岩でできているこれら地方においてはとよばれる天然の泉が点在しており、その水を利用して農耕を行っていた。 山地においてはを作って作物を植え、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分に農作物を植えた。 定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。 また、(ミルパ)農法もおこなわれた。 家畜として存在したのはだけだった。 ほかに野生の、、、、、その他の野鳥や魚が食用とされた。 食生活 [ ] マヤ文明の主食はであり、マヤ地域どの都市においても経済の根幹をなすもので、例外なく広く栽培された。 トウモロコシはというトウモロコシやと呼ばれる蒸しとして主に食された。 もマヤ高地においては先古典期より食べられていたが、マヤ低地においてはアトレやタマルが主であり、トルティーヤが食べられるようになるのは後古典期に入ってからだった。 このほか、各種のやも重要な作物であり、広く栽培された。 マヤ文明においてはの実が主食となっていたという説が唱えられたこともあったが、当時の(日本考古学用語では「」)からほとんど出土しないために食糧としてはそれほど使用されていなかったと考えられている。 としてはが重要だった。 マゲイ()の蜜水からつくられるや、蜂蜜からつくられるバルチェ酒というは儀礼に用いられた。 も重要な儀礼用作物であった。 ごろのにおいてはすでに神がたばこをくゆらすレリーフが発見されており、このころにはすでにの習慣がはじまっていたことを示している。 は飲料の材料として珍重されており、文明末期にはとしても使用されていた。 カカオは高温多湿のマヤ低地南部における主要交易品ともなっていた。 も低地東部において生産され、貴重な甘味として交易品の一つとなっていた。 も存在せずなおかつ飼う習慣もなかったためにの飲食文化は全く存在せず、また動物性食品は食したものの都市周辺の開発の進化によって対象となる野生動物が激減したための消費は少なく、植物性食品が食生活の中心となっていた。 衣料原料としてはがマヤ地域の全域で栽培された。 交易 [ ] マヤにおいては重要であり、北部の塩や中部のカカオ、南部のヒスイや黒曜石などが盛んに交易された。 この交易網はマヤ都市間のみにとどまらず、メキシコ高原や中央アメリカといった近隣地域、さらにはアメリカ西部で産出されるがマヤ遺跡から出土していることから、近隣文明も含めた大規模な交易網が確認できる。 メキシコ高原の諸文明とのかかわりは特に深く、4世紀中ごろにはメキシコ中央高原のの影響がマヤ低地南部のいくつかの土地に見られ、またチチェン・イッツァにおいて文明との交流の痕跡が認められるなど、中央高原の諸文明がマヤ諸都市になんらかの政治的影響を与えたとみられる時期も存在する。 ただしメキシコ中央高原とマヤ諸都市が同一の政治権力の元に統合されたことはなく、15世紀後半から活発に勢力を拡大したも、マヤに対しては活発に交易を行うだけで軍事的侵攻を行うことはなかった。 建築 [ ] マヤ文明の多くの都市にはが建設されていた。 ただしエジプトのものとは違い、上部にが建設されており、その土台としての性格が強かった。 最古のマヤのピラミッドは、ごろの遺跡で確認されたものである。 こうしたピラミッドはウィツ()と呼ばれていたように、山岳信仰の影響のもとで人工の山として作られたものだった。 こうしたピラミッドは、古いピラミッドを基礎としてその上に新たなピラミッドを作ることが常であり、2016年11月にはチチェン・イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた。 建築技術も進んでおり、セメント、漆喰、焼成れんがなどを使用し、工法など高度な建築技術を持っていた。 数学・文字 [ ] マヤ文明ではを使用しており、また独自にの概念を発明していた。 また、高度に発達したマヤ文字を使用していた。 数字は、点( ・)を1、横棒( -)を5として表現したり、独特なで表現された()。 も作られていたものの、それらの多くはごろにスペインの聖職者であるによって異端の書としてされてしまい、現在残る絵文書は4点のみである。 マヤのカレンダー [ ] の天文台 「」 マヤの暦としてもっとも基本的な暦はとの2つである。 前者は一周期を260日(13の数字と20の日が毎日変化する)の周期で、的、的な役割を果たしていた。 後者は1年(1)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイェブ月(ウアエブ、ウァイェブ、 ウェヤブ [ ])を追加することで365日とするものである。 なお、この2種類の暦はマヤに固有のものではなく、全体で用いられた。 スペインによる植民地化の後も、20世紀ごろになるまで簡易化した形で残っていた。 ツォルキンとハアブのほかに、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、と呼ばれるカレンダーも使われていた。 これもマヤに固有のものではないが、、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。 この暦は次のように構成されている。 日 長期暦の周期 長期暦の単位 年 バクトゥン 1日 1 ()Kin 20日 20(キン)Kin 1 ()Uinal 360日 18 (ウィナル)Uinal 1()Tun ~1 7200日 20(トゥン)Tun 1()Ka'tun ~19. 7 144000日 20(カトゥン)Ka'tun 1()Bak'tun ~394. 3 1 2880000 20()Bak'tun 1 Pictun ~7,885 20 57600000 20 Pictun 1 Kalabtun ~157,808 400 1156000000 20 Kalabtun 1 K'inchiltun ~3,156,164 8,000 23040000000 20 K'inchiltun 1 Alautun ~63,123,288 160,000 暦のについては、そのずれを調整しなかったが、が全く同じ月日に現れる(6939. 6日)を把握していたことが、やの石碑に19. 2422日との差が最大になる1. (長期暦の紀元から約755年経過した時点)の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる。 かつては、現在通用しているの365. 2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、365. 2420日がその答えとされていた。 これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたが認めたため、現在でも流布している説である がその誤りが判明している。 カラクムル遺跡にある15回目のカトゥン(9. ,731年)を祝う石碑が7本 あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。 これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を365. 2421日(3845年間に931日の閏日)としていたことになる。 また、の785年を刻んだ石彫 で、212日を追加する修正が見られる。 グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる。 これを太陽年を想定した1年の日数とすると365. 2417日(3898年間に942日の閏日)になる。 単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない。 マヤ暦の終わり [ ] 詳細は「」を参照 関連の書物ではマヤの長期暦はの付近(12月21日から23日まで)で終わるとされ、その日を 終末論と絡めた形での 預言も成就する()とする。 しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性に欠けた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。 また、2010年から2011年にかけてグアテマラ北部の9世紀頃の遺跡を調査したアメリカの発掘チームは、月や惑星の周期を計算したマヤ最古のカレンダーを発見し、その結果、2012年の終末を窺うものは見つからなかったと2012年5月11日付の米科学誌サイエンスに発表した。 この他、の計算によると「マヤ暦の最終日は2011年」との説もあった。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 228• Estrada-Belli, Francisco 2011. The First Maya Civilization: Ritual and Power Before the Classic Period. Abingdon, UK and New York, US: Routledge. Sharer, Robert J. ; Loa P. Traxler 2006. The Ancient Maya 6th, fully revised ed. Stanford, California, US: Stanford University Press. Masson, Marilyn A. 2012-11-06. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America Washington, DC, US: National Academy of Sciences 109 45 : 18237—18238. 315. Fortin, Jacey 2018年2月3日. The New York Times. 2019年4月4日閲覧。 [ ]• 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p198 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷• 「マヤ文明を知る事典」p106 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p107 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p109 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p240 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p237 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p49 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p46 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p45 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p46 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• Coe 1992 p. 「マヤ文明を知る事典」p259 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明を知る事典」p264 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「人々とたばこの関係」日本たばこ産業 2017年2月17日閲覧• 「マヤ文明を知る事典」p48 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行• 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p9 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷• 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p29 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷• 「ピラミッド内部に別のピラミッド、メキシコの遺跡で発見」 CNN 2016. 18 2017年7月23日閲覧• 「マヤ文明の「入れ子ピラミッド」、内部に第3のピラミッドを発見」AFPBB 2016年11月17日 2017年7月23日閲覧• 136頁(図版上)で確認した名称は ウアエブ、 77頁(図版19)で確認した名称は ワイェブ、 114頁で確認した名称は ウァイェブ。 , pp. 137-138• , pp. 31-32• , pp. 187-192, 254• , pp. 164-165• , pp. 322-331• , p. 231• 「」『』、2012年5月11日。 2012年5月11日閲覧。 の2012年5月11日時点におけるアーカイブ。 『2012年と — 人類はやがてゝ生命体へ多次元神化する! 』、2009年12月。 [ ] 参考文献 [ ]• 青木晴夫『マヤ文明の謎』〈 757〉、1984年12月。 Coe, Michael D. 1992. Breaking the Maya Code. Thames and Hudson• 『マヤ文字解読』監修、武井摩利・訳、、2003年12月。 (上の翻訳)• トンプソン, J. エリック・S. 『マヤ文明の興亡』訳、、2008年12月。 増田義郎「第1章 先コロンブス期の文化」『ラテン・アメリカ史 1』増田義郎・編、〈新版世界各国史 25〉、1999年8月、34-53頁。 Martin, Simon; 2000. Chronicle of the Maya Kings and Queens. 、『古代マヤ王歴代誌』監修、・徳江佐和子他訳、創元社、2002年3月。 (上の翻訳)• 『マヤ文字を解く』〈 644〉、1982年3月。 論文 [ ]• 小池佑二「」『東海大学文明研究所紀要』16号、、1996年、 27-44頁、 、 2004年4月5日閲覧。 関連書籍 [ ]• 『マヤ文明 世界史に残る謎』中央公論社〈中公新書 127〉、1966年。 のち全集収録。 『石田英一郎全集 第7巻 マヤ文明』 、1971年。 山瀬暢士 『マヤ文明 マヤ人たちの残した歴史』 太陽書房、2002年6月。 関連項目 [ ]• マヤ暦、マヤ文明を題材とした作品 [ ]• 『』 - 1963年のアメリカ映画。 『』 - 2006年のアメリカ映画。 全編通じてマヤ語が使われている。 『』 - 公開のドキュメンタリー映画(ノンフィクション作品)。 『』 - 2020年、のソロアルバム。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (英語)• (英語)• - 大越翼.

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【朗報】2020年3月20日人類滅亡の予言は嘘?コロナウイルスとマヤ暦は関係ある?

マヤ 暦 滅亡

マヤ文明が成立したのは、アメリカ大陸の真ん中あたりに位置する「中米」。 現在この地域はメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルの5国にまたがっています。 また中米の古代文明を総称して「メソアメリカ文明」とも呼んでいます。 紀元前2000年頃、マヤ地域で都市の発展が起こり、それまで局地的だった土器文化が急速に広まっていきました。 これがマヤ文明の始まりで、それ以降形を変えながら1500年代まで繁栄します。 ちなみに日本で高度な文明が発達しはじめたのは縄文時代の紀元前700年代なので、かなり早くから発展していたことがわかるでしょう。 マヤ地域は熱帯雨林の低地南部、サバンナ地帯の低地北部、気温の低いマヤ高地の3つに分けられます。 それぞれが異なる厳しい環境に置かれながらも、小さな都市がいくつも存在して文明を形成しており、アジアのような統一国家は生まれませんでした。 そのなかでも低地南部は比較的環境に恵まれていて、多くの都市が建設され、ピラミッドをはじめとする遺跡なども多数残されています。 マヤ文明は、先古典期(紀元前2000年頃~250年頃)、古典期(250年頃~950年頃)、後古典期(950年頃~1524年)と大きく3つの時期に分けられます。 なかでも古典期には多くの都市が発展し、文明の全盛期を迎えました。 ここではその古典期から滅亡までの流れを紹介します。 300年頃にティカルやカラクムルといった都市が発展し、周辺の小国に対して強い影響力を持つようになります。 大型のピラミッドや石碑、雨水を利用するための貯水槽などが築かれて、文明が発展していきます。 その後ティカルやカラクムル以外の小都市国家も文化水準が上がり、マヤ文明3000年以上の歴史のなかでも全盛期といわれるほどの発展を遂げることになりました。 また、文明全体に伝わっていた文化も独特です。 マヤ暦に代表される天文学、20進法、表意文字などかなり早くから発展していたものもあります。 さらにマヤ文明が起源になったものとして、チョコレート、七面鳥の家畜化、マヤブルーと呼ばれる染料などがあげられます。 ほかにも神秘的な精神世界を反映するものとして、音楽と血を捧げる儀式や、歯牙変工(歯を削ること)の痕跡が今でも発見され続けているようです。 しかし800年代に入ると、このマヤ地域で原因不明の都市消滅が起こり、文明の中心はユカタン半島北部へと移動します。 ここではチチェン・イッツァを中心にメキシコとマヤの2つの文明が混合した世界が形成されました。 1200年代に反乱によってチチェン・イッツァが衰退。 反乱軍や貴族による「マヤパン政権」がおよそ200年間続くことになります。 しかしこれも反乱によって崩れ、再び統一されることはありませんでした。 その後1517年にスペイン人がマヤ地域に現れ、コンキスタドールと呼ばれる探検家が次々と先住民族を滅ぼしていきます。 マヤ高地や低地北部は制圧されてしまいました。 密林地帯である低地南部はひっそりと文明を存続させていましたが、1697年にタヤサルという都市が陥落し、完全に滅亡することになるのです。 現在もマヤ人の子孫はいるものの混血がすすんでいるため、生粋のマヤ人は存在しないといわれています。 マヤ文明ピラミッドの謎 マヤ文明を象徴する建築物といえばピラミッドでしょう。 発見されているなかでもっとも古いのは、紀元前1000年頃に成立したセイバル遺跡にあるものです。 そのほかチチェン・イッツァの遺跡には「カスティーヨ」という四面建築のピラミッドが残っています。 マヤのピラミッドとエジプトのピラミッドには、建築様式に違いがあります。 エジプトのピラミッドは四角錘状で、建物下部の石室に遺体を安置する棺があるのが特徴。 一方でマヤのピラミッドは楕円形などさまざまな形状があり、建物の頂点に部屋が設置され、そこへ続く長い階段が付けられているのです。 これは、マヤ人が「天界」「地上界」「地下界」に分かれているという精神観を持っていたことに関係しています。 地下界は「あの世」のことで、彼らはこれが9層に分かれていると信じていたようです。 そしてピラミッドも9層の構造でつくられていることから、マヤのピラミッドはあの世をかたどった建物として作られていて、王が死後の世界へ行くための部屋と階段が存在していると考えられています。 このような特徴から、マヤのピラミッドは「神殿」、エジプトのピラミッドは「王墓」としての役割を果たしているとされていましたが、近年マヤのピラミッドからも人骨が発見されたことから、「神殿」と「王墓」両方の機能を兼ね備えていたのではないかともいわれています。 マヤ文明では生贄を捧げていた? マヤ地域の伝統的な文化のひとつ、生贄。 アジアやヨーロッパでも馬や牛、豚などを生贄にする習慣はありましたが、マヤでは人間を用いていました。 マヤ文明が滅亡した原因に、生贄が生み出した復讐の連鎖と人口減少もあげられているほどです。 元来マヤ人は、人命はもとより、儀式や精神世界を重んじる温厚な民族。 しかし後古典期の民族移動によって血気盛んなトルテカ人との混血が進んだことで、生贄が実施されるようになったといいます。 トルテカ人は、夕方に沈んだ太陽が夜のうちに邪悪なエネルギーを蓄え、人に災いをもたらすことを恐れていました。 その恐怖心から毎日のように生贄を捧げていたようなのです。 生贄の対象となるのは主に奴隷。 神殿に捧げられると、マヤブルーという染料で体を青く塗られ、黒曜石で作られたナイフで心臓をえぐられます。 流れ出した血は「チャックモール」と呼ばれる寝姿の人像に塗り、えぐり取った心臓を像の掌に設置して、遺体を階段から引きずり下ろすそう。 階段下にいる者で遺体の皮をはがし、その皮を被って踊りを捧げるのです。 一連の儀式が終わった後は、遺体の肉をスープにして食べました。 先述したように、800年代に突然マヤ地域で都市消滅が起こり、それまで繁栄していた文明が消えています。 歴史ミステリーのひとつとしてさまざまな説が唱えられているので、いくつかご紹介しましょう。 ・メキシコに侵略された説 800年代、マヤ地域ではメキシコとの争いがたびたび起こっていたと考えられていて、土器や壁画からもメキシコの影響が強く見られます。 しかしメキシコ側には侵略した痕跡が見つかっておらず、謎のままです。 ・干ばつで飢餓が原因の説 マヤの高原地域では、800年頃から台風の訪れる数が極端に減少し、作物が育たなくなりました。 それによって文明の中心がチチェン・イッツァに移動しますが、そこでも同時期に干ばつが起こり、滅亡したのではないかといわれています。 しかし当時のマヤ人の骨を調べたところ栄養状態は悪くないため、栄養失調が直接の原因ではないともいわれています。 ・資源不足で争いが起きた説 焼畑農業と森林伐採によって、徐々に生活圏を失っていったのではないかとも考えられています。 しかし彼らは先古典期から長きにわたり、「ミルパ・サイクル」と呼ばれる方法で密林農耕をしながら森林を維持してきたので、この説には反論が多いようです。 ・交易経路が変わり旧来の場所では暮らせなくなった説当時マヤ文明はメキシコ高原やアメリカ西部と貿易をし、塩やカカオ、黒曜石などを得て生活をしていました。 この交易の経路が変わったため、民族移動せざるをえなかったともいわれています。 一方で文明が衰退し中心地が変わったため、交易経路も変更されたという考えもあり、不確実です。 このほかにもいくつか説がありますが、どれも反論できる余地があり決定的ではありません。 ただ800年代になると各地の都市国家で石碑の記録が途絶えていて、防壁が築かれている遺跡や、身分の高い老若男女の遺体が手足を切断された状態で発見されているので、なんらかの争いが起きていたことは間違いないようです。 イラストで見るメソアメリカ文明.

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人類滅亡?3月20日がマヤ暦の終末説とインド暦の終わりと一致!

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東京オリンピックはない!松原照子さんの予言 東京オリンピックの中止を示唆する予言で最も有名なのが、日本の大予言者松原照子さんの予言だろう。 そういえば、朝のテレビで古文書に災害のことが書かれていて東日本大地震・阪神淡路大地震・新潟大地震と同じ場所で平安時代に起きたと話していました。 東日本大地震が起きてから9年目あたりに関東大地震が来るのかなぁと、この古文書のその当時の出来事の文面から感じてしまいました。 だからと言って今の私は2020年がX年とは思っていませんが、何度かお伝えしている2020年の東京オリンピックのことです。 あるお集まりの席で質問をされた「東京でオリンピックは開催されますか」に間、髪を容れず「ない」と答えた自分に驚いたと同時に、何故あんなことを言ったのか未だに気になってしまっています。 松原氏はテレビで平安時代の地震の歴史を見て、なんとなく東日本大震災の9年後に大地震起きそうだなぁ~と直感する。 さらに別の機会に「東京オリンピック開催されますか?」という質問をされ、すぐさま直観的に「ない」と答えてしまう。 これらのエピソードから深読みして、東京オリンピックの前に日本に大地震が起こり、開催されないのではないか…と思われているわけだ。 その直感のもととなったであろう、平安時代の大地震がこちら。 863年 越中・越後地震• 868年 播磨国地震 M7. 0程度• 869年 貞観地震(じょうがんじしん)三陸沖の巨大地震 M8. 869年 地震風水の災 肥後国(熊本)• 878年 相模・武蔵地震 M7. 4(首都直下型地震)• 880年 出雲地震 島根 M7. 887年 仁和地震(南海トラフ巨大地震)M8. 5 969年の三陸沖巨大地震の8年後に、南海トラフで仁和地震が発生している。 現代に当てはめるとしたら、2011年東日本大震災の8年後である 2019年くらいに南海トラフ巨大地震が発生するということになる。 また、それ以外の地震と 現在の地震の相関関係も気になるところ。 昨日の深夜の話なんだけどさ、ラジオ聞いてたのよ んでちょうど日付変わる頃にさ、いきなり混線し始めた 古いタイプのラジオだからすぐチューニングがズレる 韓国だか北朝鮮だかの電波捉えたりすることもある でも昨日は違った。 「8月31日月曜日になりました。 引き続き11日に起こった関東東海大地震の 情報をお伝えします」 ん?まだ東北の地震の事言ってんのかと思ったら違った 「関東東海大地震?」 だけどものの1分くらいで放送は途切れ、通常の放送に戻った おんなじ放送聞いた人いないかな? 夢だといいんだけど... ラジオが流れた2011年の8月31日は水曜日。 こんなラジオ放送が流れるわけがない。 思い返してみても、2015年8月11日に関東東海大地震なんて発生していない。 では、暦の上で2015年の次に8月31日が月曜日になるのは…? そう、それが東京オリンピックが開催される2020年。 2020年8月31日は月曜日なのだッ!! もしかしたら、 2020年8月11日には「関東東海大地震」が発生するかもしれない。 その名前からして、東海地方だけでなく関東地方も揺れる大規模な災害になりそうだ。 でも、安心して欲しい。 東京オリンピックは2020年8月9日に終了する。 関東東海大地震が起きるのはその2日後なのだから…。 2020年から荒くれた時代へ!聖徳太子の予言 歴史の教科書でおなじみの聖徳太子であるが、彼は「 未来紀」と呼ばれる予言書を書き記していたという伝説が残っている。 聖徳太子が著した未来記についての記述は、平家物語や太平記にもみられるが、それが本当に実在したのかについては未だに謎に包まれている。 だれも本物の未来記を見たことがないわけだ。 そんな原本が存在しない未来記であるが、その 未来記の内容を象徴したとされる建造物がある。 それが聖徳太子ゆかりの寺院である法隆寺の五重塔。 五重塔は1階ごとに500年の時代を象徴する絵が描かれていたらしく、五重塔全体で2500年分の未来をあらわしている。 しかし2500年以降の未来については描かれていない…。 聖徳太子の未来記では、釈迦が亡くなってから2500年の後、世界は釈迦の庇護にない混乱の時代に突入するとされる。 釈迦の入滅は紀元前480~500年頃とされているので、その2500年後は2000年~ 2020年に当てはまる。 2020年は東京オリンピック開催の年。 この年は大きな時代の転換期であり、 人類滅亡の始まりの年であるかもしれない!! 東京オリンピックは無事開催されるのだろうか…。 東京立ち入り禁止!ジョンタイターの予言 ジョン・タイターは2000年11月、アメリカのネット掲示板に忽然と現れた未来人。 今なお続く、ネット上の自称未来人たちの先駆けとなった、 ネット未来人のパイオニア的存在だ。 彼は掲示板を通していろんな現代人と交流を深め、専門的な知識を必要とするようなタイムトラベル理論や、未来に起きる出来事などの予言を残し、2001年に未来へと帰っていった。 その彼の予言が指し示す日本の2020年の状況がこれ。 首都が東京ではなくなっているし、東京を含めた東北地方全体が政府によって立ち入り禁止になっている。 東京が立ち入り禁止なので、当然のことながら2020年の東京オリンピックも開催されないだろう。 ちなみにジョン・タイターの予言によると、2015年に第三次世界大戦が起こり、30億人の人類が死ぬという。 ひょっとしたら、ジョン・タイターが現代人とコンタクトを取ったことにより、未来への世界線が少しだけズレたのかもしれない。 恐らくこの地図のような惨状が現実化することはないと思うが…。 もし2011年の東日本大震災の時、原発の被害状況や風向きが少しでも違っていたら…ジョン・タイターの地図のように、2020年には東京を含めた東北全体が立ち入り禁止になっていたかもしれない。 いい加減にしろ!マヤ文明の予言 マヤ文明の聖典に記された伝説によると、世界は周期的に破壊と再生を繰り返してきたとされている。 その世界のひとつが2012年12月21日に終わりを迎えるとされ、「世界が滅亡するのではないか!!?」と話題になった。 これが世に言う「マヤの終末予言」だ。 しかし実際にはまったく何も起こらず、世界は平和なまま。 マヤ文明の予言っていっても世界が滅びると明記されているわけではないし、世界が終わらないのも当然といえば当然。 マヤ暦的には第5の世界が終わり、第6の世界が巡ってきたことになる。 ところが… フランスのモーリス・シャトランという科学ジャーナリストが、マヤ暦が終わるのは2012年ではなかったと主張し始めた。 マヤ暦のグレゴリオ暦(西暦)に変換する計算を正しく行うと、 マヤ暦が終わるのは2020年3月20日と主張しているのだ!! そもそもマヤ暦が終わる西暦については諸説あり、2012年以外にも2011年10月28日説なんかもあった。 マヤ暦が終わるのは本当に2020年なのか!? ともあれ、本当に2020年3月20日に世界が終末を迎えるとしたら、東京オリンピックどころではなくなるだろう。 インド歴とマヤ歴とヨハネの黙示録の奇妙な一致 2020年3月20日にひとつの世界が終わる…。 このマヤ暦の新説と 奇妙な一致を見せるのが、インドのスーリヤ寺院に残されていたとされる インド歴の記述。 スーリヤ寺院の研究者によると 2020年3月21日に破壊神カルキが現れて世界が終わると明確に記されているというのだッ!! 「でも、破壊神カルキってなんぞや?水道水の消毒に使われるやつか??」と思い調べてみると驚くべき事実が。 その名は「永遠」、「時間」、あるいは「汚物を破壊するもの」を意味する。 白い駿馬に跨った英雄、あるいは白い馬頭の巨人の姿で現される。 参照元:(Wikipedia) カルキは うんこを破壊する神であり、 白い馬に乗っているという。 そう、白い馬だ。 思い出されるのは ヨハネの黙示録のアルマゲドン(最終戦争)に関する予言。 子羊が7つの封印の1つを開くと 白い馬が現れ、乗っている者は弓を持っていた。 彼は冠を授かり、勝利の上の勝利を得ようと去った。 ヨハネの黙示録 6章1~2節 ヨハネの黙示録では、アルマゲドンを導く4人の騎士が記されている。 その4人の騎士の中の第一の騎士が、白い馬に乗って現れると明確に記されているのだ。 …これは偶然か? ヨハネの黙示録によると、白い馬の騎士の次には、赤い馬に乗った第二の騎士が、そして黒い馬に乗った第三の騎士、最後に青白い馬に乗った騎士が次々と現れる。 白い馬の騎士と赤い馬の騎士は共に大戦争を始め、地上に殺し合いを招く。 黒い馬の騎士は干ばつや大飢饉を招く。 そして最後に登場する青白い馬の騎士は、疫病と飢えによって地上の人々を殺戮する。 この恐るべきアルマゲドンが、まさに2020年から少しずつ始まるとしたら? ヨハネの黙示録とスーリヤ寺院のインド歴、そしてマヤ暦、この奇妙な偶然の一致は何なのか?? すべては2020年に世界で最終戦争が巻き起こり、終焉へのカウントダウンが始まることを指し示しているのではないだろうかーーーッ!!? 俺の予言!! 7つ目の恐るべき予言…それは 私自身のタロット占いだ!! 私はドラクエ10で占い師を職業としていた。 タロットカードを駆使して日々、戦っていたわけだ。 その影響で、実際にタロットカードを購入しており、大予言者にも匹敵するタロット占いを行うことができる。 レベル100の占い師であるオレがッ! 2020年開催の東京オリンピックを!! 魂を込めて占った結果がこれだァーーッ!!! THE FOOL(愚者)の正位置。 ルナ・マリア先生著「いちばんやさしいタロットの教科書」によると、フールの正位置は「新しい始まり」「無限の可能性」「冒険」「変化」などを暗示している。 つまり…東京オリンピックは日本という国の新しい始まり、その ターニングポイントとなるという暗示だと思われる。 正位置なので、どちらかといえばポジティブな結果だ。 しかし「新しい始まり」は「 古いものの終わり」をも暗示している。 古い時代が終わり、新しい時代が始まる。 その意味では聖徳太子の予言やマヤ暦、インド歴の示唆する未来と同じといっていい。 ただ、その先に続く未来は決して滅亡ではなく、楽しみながら新しい冒険を続けるタフな日本国が見えてくる。 シンプルな奴ほど強い…!! それは経済発展という形ではないかもしれないけれども、とにかく2020年以降の日本は新しい変化の時代を迎える。 変化し、挑戦する者にとってはチャンスが溢れているだろうが、変化を拒絶する者には、暗い未来が待っているかもしれない。

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